明史卷一百五十四 列傳第四十二 桞升

安南の水軍と北征

  • 桞升は懷寧の人。父の職を襲って燕山䕶衛百戸となり、大小二十餘戦を経て累遷して左軍都督僉事。
  • 永樂の初め、張輔に従って交阯を征し、魯江で賊を破ってその帥阮子仁らを斬った。鹹子關を守っていると、賊が富良江に入り、舟が十餘里にわたって江をふさいで寨を立て、陸兵も数万人いた。輔が歩騎を、升が水軍を率いて挟み撃ちにして大敗させ、偽尚書の阮希周らを獲た。また竒羅海口で賊を破って舟三百を得た。部下の兵が季犛とその子の澄を捕らえた。升は露布を持って俘を献じ賞賜を受けた。軍が還ると安逺伯に封ぜられ、禄千石と世劵を与えられた。
  • 七年(1409年)、陳瑄とともに舟師を率いて海を巡り、青州の海上で倭を大破し、金州の白山島まで追って還った。翌年、北征に従って回曲津に至り、神機火器を率いて前鋒となり呵魯台を大敗させ、候に進封されて禄五百石を加えられ、伯爵は世襲のままとされた。出て寧夏を鎮し、叛将の馮達・蘭特穆爾らを討ち斬った。召還されて京營の兵を総べた。
  • 十二年(1414年)、また北征に従い大営の兵を率いて和拉・和鍚衮に戦い、火器で敵を破った。
  • 十八年(1420年)、蒲臺の妖婦唐賽兒が叛くと、升と都指揮劉忠に京軍を率いて討伐させた。その寨を囲んだが、升は大将だという意識から賊を軽んじ、賊が降を乞うとこれを信じ、夜襲を受けた。忠は流れ矢に当たって死に、賽兒は逃げ、夜が明けてようやく気づき、その一党百餘人を追捕した。都指揮の衛青が刀で戦って安邱の囲みを解いたが、升はその功を妬んで辱めた。召されて下獄したが、まもなく釈放された。
  • 二十年(1422年)、また北征に従い中軍を率いて竒拉爾河に烏梁海を破り、世襲の侯を与えられた。帝が五度塞外に出たときはいずれも従い、しばしば功があり、寵遇は諸侯の上位にあった。仁宗が即位すると右府を掌ることを命ぜられ、太子太傅を加えられた。

倒馬坡の敗死

  • 宣徳元年(1426年)冬、成山候王通が黎利を征して敗れたと聞こえ、升を征虜副將軍・總兵官、保定侯梁銘を左副總兵、都督崔聚を參將、尚書李慶を贊軍務とし、歩騎七萬を率いて黔國公沐晟と会し討たせた。当時すでに賊勢は盛んで道路は絶え、朝廷は長く交阯の奏報を得ていなかった。
  • 二年(1427年)六月、軍丁の李荗先ら三人が間道を通って京師に走り、昌江が包囲されて危急だと告げた。帝は三人に百戸を授け、升に急ぎ救援するよう敕したが、昌江はすでに四月に陥落していた。
  • 九月、升はようやく隘留關に入った。利が偽って国内の高僧の書として陳氏の後裔を立てることを請うたが、升は封を開かずに奏聞した。賊が道々険に拠って栅を並べたが官軍は速やかに破り、鎮夷關に至った。升は賊がたびたび敗れたので侮った。
  • そのころ李慶と梁銘はともに重病であった。郎中の史安と主事の陳鏞が慶に言った。「桞将軍は言葉つきも顔つきも驕っている。驕りは兵家の忌むところだ。賊は弱みを見せて我らを誘っているのかもしれぬ。賊を警戒し伏兵に備えよという璽書の戒めはきわめて切実だ。公は力を尽くして進言すべきだ」。慶は無理に起きて升に告げたが、升は意に介さなかった。
  • 倒馬坡に至り、升が百餘騎とともに先んじて馳せ橋を渡ると、橋が突然壊れて後続が進めなくなった。賊の伏兵が四方から起こり、升は泥沼に陥って鏢に当たって死んだ。その日、銘が病没し、翌日、慶もまた卒した。さらに翌日、崔聚が軍を率いて昌江に至ると賊はますます多く集まり、官軍は決死の戦いをした。賊が象を駆って大戦し陣が乱れ、賊は「降る者は殺さぬ」と大呼したが、官軍は死ぬか走るかで降る者はなく、全軍が壊滅した。史安・陳鏞および李宗昉・潘禋はみな死んだ。
  • 崔聚は懷逺の人。成祖の挙兵に従い、(永樂)八年に北征に従って廣漠戍で敵を破り、洪熙元年(1425年)に累遷して左軍都督僉事となった。ここに至って力戦して捕らえられ、賊があらゆる手で降らせようとしたが、ついに屈せず死んだ。
  • 升は質直寛和で士卒をよく撫したが、勇にして謀に乏しく、ついに敗に至った。升が敗れると沐晟の軍も進めず引き返し、王通は孤軍で援を絶たれ、ついに交阯を棄てた。
  • 朝議は升が軍を失ったとして子の溥に爵を襲がせなかったが、久しくして許した。正統十二年(1447年)、升に融國公を贈り諡を襄愍とした。

桞溥とその子孫

  • 溥は初め中府を掌り、出て廣西を鎮した。廉直慎重であったが将略はなかった。山雲の後を承けながら成法を守れず寛弛に過ぎ、猺・獞が互いに煽って乱をなした。溥は前後して大藤峽の賊の首領を討ち斬り、桞州・思恩の諸蛮寨を破ったが、賊はもとのままはびこった。
  • 景泰の初め、兵事が急となり召されて右府を掌り神機營の事を総べた。事が定まってまた出鎮し、天順の初めに召還されて宣府・大同を防いだ。累進して太傅。陜西に警報があると平虜大將軍印を佩びて防ぎに赴いた。敵がふたたび涼州に入ったが、溥は壁を閉じて出ず、敵が存分に掠奪して去ってから追いすがって数十級を取り勝報を上げた。弾劾されて太傅を落とされ閒住となったが、まもなく再起して神機營を掌った。卒して諡は武肅。
  • 孫の景が嗣ぎ、景の子は文、文の子は珣。三代とも両廣を鎮して平蛮の功があった。嘉靖十九年(1540年)、珣に征夷副將軍印を佩びさせて安南の莫登庸を征させ、登庸が降を乞い、太子太傅を加えられた。また瓊州の黎賊を討った功で少保を加えられた。卒して太保を贈られ諡は武襄。爵は明の滅亡まで伝わって絶えた。

史安・陳鏞・李宗昉・潘禋

  • 史安は字を志静といい、豐城の人。廉潔重厚で学を好み、進士から官を歴任して儀制司郎中となった。
  • 陳鏞は字を叔振といい、錢塘の人。庶吉士から祠祭司主事を授かった。楊士竒はその清介端確、表裏ともに正から出ていると称した。
  • 李宗昉はどこの人か分からない。やはり主事として従軍した。
  • 潘禋は鄞の人。後軍都事として従軍した。かつて升に慎重に構えて偵察を広く行うよう勧め、芹站・寧橋の事を引いて戒めとしたが、升は聴かず、軍が敗れて格闘して死んだ。