明史卷一百五十四 列傳第四十二 李彬

出自と靖難・海防

  • 李彬は字を質文といい、鳳陽の人。父の信は太祖の渡江に従い、功を積んで濟川衛指揮僉事となった。彬は職を嗣ぎ、潁國公傅友徳に従って塞外に出て斬獲が多く、還って諸辺の城を築いた。
  • 成祖が挙兵すると帰服して前鋒となり、転戦して功があり、累遷して右軍都督僉事。永樂元年(1403年)四月、邱福の議によって豐城候に封ぜられ、禄千石と世劵を与えられた。
  • 翌年、襄城伯李濬が永新の叛寇を討つにあたり、彬に師を率いて策応させたが、到着しないうちに寇が平らいだ。そこで麾下を率いて廣東を鎮した。四年(1406年)、召還されて南陽皁君山の寇を捕らえた。

安南征討と甘肅・北征

  • 四年七月、左參將として征夷副將軍印を持って沐晟に授け、安南を進討した。十二月、彬と雲陽伯陳旭が安南の西都を破り、また木丸江で賊を大敗させた。安南が平定されたが、論功では旭とともに敵に臨んで手間取ったとして封を増されず、禄五百石を加えられただけであった。
  • まもなく總兵官に充てられて海上の倭に備え、兵を移して長沙の賊李汝良を討ち擒え、また浙・閩の兵を率いて海寇を捕らえた。
  • 十年(1412年)、甘肅に赴き西寧候宋琥とともに降った酋長の経略を命ぜられた。彬は桞升とともに国境に厳重に兵を置き、土官の李英に野馬川を守らせた。涼州の酋長婁達哈が叛いて都指揮何銘が戦死したが、英が追撃してその衆をことごとく捕虜にした。婁達哈は赤斤䝉古に逃れた。帝は発兵しようとしたが、彬は道が遠く糧の輸送が続かないので、ゆっくり図るべきだと言った。翌年、琥に代わって甘肅を鎮すると、赤斤䝉古が婁達哈を縛って献じた。帝は彬の功を嘉して賜与がきわめて厚かった。
  • 十二年(1414年)、北征に従い右哨を領して和實衮で敵を破り、追撃して圖拉河に至った。凱旋して上賞を受け、鎮を陜西に移した。

交阯鎮守(永樂十五年〜二十年)

  • 十五年(1417年)二月、征夷將軍印を佩びて交阯を鎮すことを命ぜられた。着任すると陸那縣の賊阮貞を破って擒え、都督朱廣らを遣わして順州および北晝の諸寨を平らげた。
  • 翌年、清化府の土巡檢黎利が叛いた。彬は廣を遣わして討ち破り、利は逃げた。十七年(1419年)、都督同知方政を遣わして可藍栅に利を襲わせ、その将軍阮箇立らを獲た。利は老撾に走った。軍が還るとまた出て寇をなしたので、都指揮黄誠が撃退したが、暑さと雨のため兵を返した。
  • このころ交人の叛乱が四方に起こり、彬は諸将を遣わして道を分けて討たせた。方政は車綿子らを嘉興に、鄭公証を南䇿に、丁宗老を大灣に討ち、朱廣は譚興邦らを別部に討ち、都指揮徐謜は范軟を俄樂に討ち、指揮陳原瑰は陳直誠を惡江に討ち、都指揮王忠は楊恭を峽山に討ち、いずれも相次いで勝報をもたらした。とくに賊勢の激しいところには彬が自ら出向いて撃った。
  • 潘僚は乂安の土知府であったが、中官馬騏に虐げられて衙儀で叛いた。彬が撃破して玉麻州まで追いその酋長を擒え、進んで賊の栅を焼いた。僚は老撾に逃げ込んだので、彬は都指揮師祐を遣わして兵を率いさせた。僚は老撾の兵で迎え撃ったが、農巴林でこれを破ってその衆をことごとく降した。
  • 范玉は塗山寺の僧で東潮州に叛いた。彬が討ちに行って江中で破り、玉は逃げたが東潮で追って捕らえた。
  • 鄭公証の一党の黎姪がまた起こり、都指揮陳忠らがたびたび小黄江でこれを破った。彬は自ら追捕して鎮蠻に至り、その衆をことごとく縛った。かくて諸賊はおおむね平らいだ。ただ黎利だけがしばしば出没して磊江に衆を集め、たびたび徐謜・方政に敗れてはまた逃げた。
  • 十九年(1421年)、彬は輸送が続かないことから、官軍と上軍を混成して屯田させ、あわせて屯守と征行の人数の割合を定めることを請い、帝は従った。兵を発して老撾に入り黎利を索めようとすると、老撾は恐れて自ら捕らえて献ずると願い出た。折しも彬が発病して沙汰止みとなり、翌年(永樂二十年、1422年)正月に卒した。
  • 後任の孟瑛・陳智・李安・方政はみな討伐できず、王通が代わって鎮すると賊勢はいよいよ盛んになり、交阯はついに守れなくなった。彬は卒して荗國公を贈られ、諡は剛毅。

子孫

  • 子の賢が嗣いだ。宣徳三年(1428年)、出塞に従い、還って永寧・隆慶の諸城を修めた。正統の初め大同を鎮し、ついで南京を守備した。景泰二年(1451年)卒、豐國公を贈られ諡は忠憲。
  • 子の勇が嗣ぎ、二代を経て孫の旻に至った。正徳中、貴州を鎮して思南・石阡の流賊を擒え、武定の諸蛮を平らげて功があり、太子太傅を加えられた。嘉靖の初め湖廣を鎮して威と恵があり、楚の人が安んじた。両廣に移った。武定候郭勛が京營を統べていたが罪で罷免され、世宗は旻が遠鎮にいて朝廷内に党がないというので召して代えたが、まもなく事に坐して罷免され、卒して諡は武襄。
  • 子がなく従子の熙が嗣いだ。出て湖廣を鎮し、楚の世子の獄で連座者がきわめて多かったのを、熙が御史に言って二百餘人を無罪とした。沅州・麻陽の叛蛮を討ち平らげた。卒して子がなく従子の儒が嗣いだ。
  • 伝えて孫の承祚に至り、天啓のとき魏忠賢に取り入って海外督理の内臣を置くことを請い、また忠賢に九錫を与えることを請うた。崇禎の初めに爵を奪われ辺境に戍した。子の開先が嗣いで伯となり、都城が陥ちて害に遇った。