明史卷一百五十四 列傳第四十二 梁銘

靖難から交阯へ

  • 梁銘は汝陽の人。燕山前衛百戸として仁宗の北平守備に従い、李景隆が城を囲むとよく戦った。功を積んで後軍都督僉事に至り、仁宗の監国に侍した。永樂八年(1410年)、事に坐して下獄したが、十九年(1421年)に赦されて復職し、副都督胡原とともに廣東で倭を捕らえた。
  • 仁宗が即位すると都督同知に進み、參將として征西將軍印を佩び、都督同知陳懷とともに寧夏を鎮した。守城の功を追論されて保定伯に封ぜられ、禄千石と世劵を与えられた。宣徳の初め、御史石璞がその貪欲を弾劾して下獄し、爵を奪われるところを宥された。
  • 桞升に副して交阯を征したが、升が敗れると銘は病没した。銘は勇敢で戦上手、よく士卒の心を得ていた。銘が死んだのち崔聚だけが衆を率いて入り、全軍がついに覆った。

梁珤――貴州の苗を討つ

  • 子の珤が嗣いだ。正統の末、副總兵に充てられて福建の盗鄧荗七を討ち、余賊を九龍山に撃ち斬って凱旋したが、賊党がまた起こったため為事官に謫せられた。石亨に従って功を立て復爵した。
  • 景泰元年(1450年)、平蠻將軍に拝され王驥に代わって貴州の苗を討った。その冬、四道に分かれて進攻して大敗させ、斬首七千有余、寨五百を破った。翌年、沅州から進兵して都督方瑛とともに興澤で賊を破り、また香罏山で大破して偽王韋同烈らを捕虜とし、数千人を擒斬した。兵を分けて都匀・草塘を攻めると、諸苗はことごとく震え上がって降った。軍が還ると苗がまた叛き、珤は瑛とふたたび討ち平らげた。論功で侯に進み禄五百石を加えられた。
  • 四年(1453年)、湖廣清浪の叛苗を討ち平らげた。天順元年(1457年)、出て陜西を鎮し、涼州で敵を破り、また靖虜堡で敵を破った。召還されて左府の事を理めた。成化の初めに卒し、蠡國公を贈られ諡は襄靖。
  • 珤は生まれつき穏やかで思いやりがあり、たびたび兵権を総べたがみだりに一人も殺さなかった。子弟が従軍して功で官を授けられても辞退して受けず、人々は賢とした。爵は世勲に伝わり、崇禎の初めに京營を提督し、京師が陥ちて害に遇った。