明史卷一百五十四 列傳第四十二 張輔

出自と嗣職

  • 張輔は字を文弼といい、河澗王玉の長子である。燕師(靖難の兵)が起こると父に従って力戦し、指揮同知となった。玉が東昌で戦死すると職を嗣ぎ、夾河・藁城・彰徳・靈壁の各戦でいずれも功をあげた。
  • 京師入城に従って信安伯に封ぜられ、禄千石と世劵を与えられた。妹が帝の妃であったため、邱福・朱能が「輔父子の功はいずれも高い。私的な姻戚だからといって賞を薄くしてはならない」と述べた。

安南征討(永樂三年〜四年)

  • 永樂三年(1405年)、新城候に進封され、禄三百石を加えられた。
  • このころ安南の黎季犛がその主を弑し、みずから太上皇と称して子の蒼を帝に立てた。旧王の孫の陳天平が老撾から来奔すると、季犛は帰国させたいと偽って請うた。帝は都督黄中に兵五千を率いて送らせ、前大理卿の薛嵓を副えたが、季犛は芹站に兵を伏せて天平を殺し、嵓も死んだ。
  • 帝は大いに怒り、成國公朱能を征夷將軍、輔を右副將軍とし、豐城候李彬ら十八將軍・兵八十萬を率いさせ、左副將軍西平候沐晟と会して道を分けて討たせた。兵部尚書劉儁が軍事に贊し、行部尚書黄福・大理寺卿陳洽が饋餉を担当した。
  • 四年(1406年)七月、能が軍中で卒し、輔が代わってその衆を領した。憑祥から進軍して坡壘關を越え、安南境内の山川を望祭し、季犛の二十の罪を檄文に列ねた。隘留・鷄陵の二關を破り、芹站でその伏兵を走らせて新福に至った。晟の軍も雲南から至り白鶴に営した。
  • 安南には東西の二都があり、宣・洮・沲・富良の四江を険としていた。賊は江の南北の岸に栅を立てて舟を集め、多邦に城を築いた。城・栅・橋・艦は相連なること九百餘里、兵衆は七百萬と称し、険に拠って輔の軍を疲れさせようとした。輔は新福から三帯州に軍を移し、船を造って進取をはかった。
  • 帝は朱能の死を聞き、輔を將軍に拝する敕を下した。制詞では李文忠が開平王常遇春に代わった例を引き、冬のうち瘴癘の起こらぬ時に賊を滅ぼすべきだと述べた。

多邦城の攻略と安南平定(永樂四年冬〜六年)

  • 十二月、輔の軍は富良江の北に次した。驃騎將軍朱榮を遣わして嘉林江で賊を破り、晟と合軍して多邦城を攻めた。他方を攻めると見せかけて賊を緩ませ、都督黄中らに敢死の士を率いさせ、炬火と銅角を持たせて夜四鼓に重濠を越え、雲梯で城壁を登らせた。都指揮蔡福が先登し、士卒が蟻のように攀じ登った。角が鳴って万の炬が一斉に挙がり、城下の兵も鼓噪して継進し、ついに入城した。
  • 賊が象を駆って迎え撃つと、輔は画いた獅子を馬に被せて衝かせ、神機火器を両翼に配したので、象はみな反転して走った。賊は大潰し、その帥二人を斬った。繖圓山まで追い、江沿いの木栅をことごとく焼いた。俘斬は数え切れない。
  • 進んで東都を陥とし、吏民を輯め、降附した者を撫した。帰順する者は日に万を数えた。別將の李彬・陳旭を遣わして西都を取らせ、また軍を分けて賊の援兵を破った。季犛は宮室と倉庫を焼いて海に逃れ、三江の州県はみな風を望んで降った。
  • 翌五年(1407年)春、輔は清逺伯王友らを遣わして自注江を渡らせ、籌江・困枚・萬刼・普頼の諸寨をことごとく破り、斬首三萬七千餘級。賊將胡杜が盤灘江に舟を集めると、降將の陳封に襲わせて走らせ、その舟をすべて得た。かくて東潮・浙江の諸府州を定めた。
  • ついで木丸江で季犛の舟師を撃破し、斬首萬級、將校百餘人を擒え、溺死者は数え切れなかった。膠水縣の悶海口まで追い、還って鹹子關に築城し、都督柳升に守らせた。
  • その後、賊が富良江から入ると、輔と晟は両岸から迎え撃ち、升らの舟師が横から撃って大破した。馘斬数萬、江水は赤く染まった。勝ちに乗じて追ったが、旱で水が浅く賊は舟を棄てて陸を走った。官軍が至ると大雨で水が漲り、ついに全軍が渡った。
  • 五月、竒羅海口で季犛とその子の蒼、および偽の太子・諸王・將相・大臣らを捕らえ、檻に入れて京師に送った。安南は平定され、府州四十八・縣一百八十・戸三百十二萬を得た。陳氏の後裔を探したが得られず、そこで交阯布政司を設けてその地を内属させた。唐の滅亡以来、交阯が蛮服に沈んで四百餘年、ここに版図に復した。帝は詔して天下に告げ、諸王・百官は表を奉って賀した。
  • 六年(1408年)夏、輔は軍を整えて京師に還り、奉天殿でふたたび宴を賜わった。帝は「平安南歌」を作った。英國公に進封され、歳禄三千石と世劵を与えられた。

簡定・陳季擴の討平(永樂六年冬〜十二年)

  • その年の冬、陳氏の旧臣簡定が再び叛き、沐晟に討たせたが生厥江で敗績した。
  • 翌七年(1409年)春、ふたたび輔に征虜將軍印を佩びさせ師を率いて討たせた。このとき簡定はすでに越上皇を僭称し、別に陳季擴を立てて皇とし、勢いはきわめて盛んであった。輔は叱覽山で木を伐って舟を造り、諒江以北で寇を避けていた者を招いて生業に復させた。
  • 進んで慈亷州に至り、喝門江を破り、廣威州の孔目栅を陥とした。鹹子關で賊に遇い、賊の舟六百餘が江の東南岸に拠った。輔は陳旭らを率いて划船で戦い、風に乗じて火を放ち、賊帥二百餘人を擒えてその舟をすべて得た。太平海口まで追うと、賊將鄧景異が三百艘で迎え撃ったが、これもまた大いに破った。
  • ここで季擴が自ら陳氏の後裔だと言い、使者を遣わして封を継ぐことを求めた。輔は「以前あまねく陳王の後裔を探しても応じなかった。今のは偽りだ。私は命を奉じて賊を討つのみで、他は知らぬ」と言った。朱榮・蔡福らに歩騎で先行させ、輔は舟師で後に続き、黄江から神投海に至り、清化で会師した。道を分けて磊江に入り、美良山中で簡定とその一党を捕らえて京師に送った。
  • 八年(1410年)正月、賊の余党を進撃して数千人を斬り、京観を築いた。ただ季擴だけが捕らえられなかった。帝は沐晟を留めて討たせ、輔には班師を詔した。輔は興和で帝に謁し、宣府・萬全で練兵して北征の督運にあたるよう命ぜられた。
  • このとき陳季擴は降を請うたが実は改心しておらず、輔が帰ったのに乗じて攻略掠奪はもとのままであった。晟は制することができず、交人は中国の約束に苦しみ、また吏卒にたびたび侵擾されたので、しばしば賊に加担し、服したり叛いたりした。將帥はますます寇を侮って手を抜いた。
  • 九年(1411年)正月、あらためて輔と沐晟に協力して進討するよう命じた。輔は着任すると軍令を申し渡した。都督黄中がしばしば驕って節度に違い、詰問しても不遜であったので、斬って徇えた。将士は恐れ慎み、命に従わぬ者がなくなった。
  • その年七月、月常江で賊帥鄧景異を破り、船百餘を獲て、偽元帥鄧宗稷らを生け捕りにした。また別部の首領数人を捕斬した。瘴癘のため兵を休めた。
  • 翌十年(1412年)八月、神投海で賊の首領を撃った。賊の舟四百餘が三隊に分かれ、鋭気きわめて盛んであった。輔がその中堅を衝くと賊は退いたが、左右の隊が次々に進み、官軍と入り乱れて死闘となった。卯の刻から巳の刻まで戦い、大いに破って渠帥七十五人を擒えた。乂安府に進軍すると、降る賊将が相次いだ。
  • 十一年(1413年)冬、晟と順州で会し、愛子江で戦った。賊が象を先頭に立てると、輔は士卒に「一の矢で象使いを落とし、二の矢で象の鼻を射よ」と戒めた。象は奔り返って自軍を踏みにじった。禆將の楊鴻・韓廣・薛聚らが勢いに乗じて続き、矢が雨のように降って賊は大敗し、その帥五十六人を擒えた。愛母江まで追ってその衆をことごとく降した。
  • 翌十二年(1414年)正月、政平州に進み、賊が暹蠻・昆蒲の諸栅に屯していると聞いて兵を向けた。懸崖沿いの細道で騎馬では進めず、輔は将校とともに徒歩で山の茂みを行き、夜四鼓にその巣に至って鄧景異・阮鎔らをことごとく擒えた。季擴は老撾に逃れたので、指揮師祐を遣わして兵で探させ、その三關を破り、季擴とその妻子を縛って京師に送った。
  • 賊が平らぐと、承制して賊が占城から奪った地に升・華・思・義の四州を設け、衛所を増置して官を置き、降人には軍を留めて守らせて還った。
  • 十三年(1415年)春、京に至り、まもなく交阯總兵官として鎮守に赴いた。余寇の陳月湖らがまた乱を起こしたが、輔がことごとく討ち平らげた。
  • 十四年(1416年)冬、召還された。輔は前後四度交阯に赴き、郡邑の建置および驛傳・遞運の増設は規畫がきわめて行き届いていた。交人が畏れたのはただ輔だけであった。
  • 輔が還って一年で黎利が叛いた。たびたび将を遣わして討たせたが功はなく、宣徳のころには桞升が敗死し、王通は賊と盟約してあわただしく引き揚げた。廷議は交阯放棄に傾き、輔は争ったが容れられなかった。

四朝の元老(洪熙〜正統)

  • 仁宗が即位すると中軍都督府事を掌り、太師に進んで二つの俸を併せ支給された。ほどなく輔の太師の俸を北京の倉から支給させた。当時、百官の俸米はみな南京で支給されていたから、これは特別の恩であった。
  • 成祖の喪が二十七日を満ちたとき、帝は素冠麻衣で朝に臨んだが、群臣はすでに吉服に改めており、ただ輔と学士楊士竒だけが帝と同じ服であった。帝は「輔は武臣でありながら礼を知ること六卿に勝る」と嘆じ、いよいよ親任を厚くした。ほどなく知經筵事・監修實録を命ぜられた。
  • 宣徳元年(1426年)、漢王高煦が謀反し、諸功臣を誘って内応させようと、夜ひそかに人を輔のもとへ送った。輔はこれを捕らえて奏聞し、反逆の実態をすべて明らかにした。兵を率いて撃つことを請うたが、帝は親征を決し、輔を扈従させた。事が平らぐと禄三百石を加えられた。輔の威名はいよいよ盛んで、長く兵権を握った。
  • 四年(1429年)、都御史顧佐が功臣の保全を請うたので、輔に府務を解かせ、朝夕左右に侍して軍国の重事を謀画させた。光禄大夫・左柱國に進階し、朔望に朝した。英宗が即位すると翊運佐理の号を加えられ、知經筵・監修實録はもとのままであった。
  • 輔は雄毅方厳、軍を治めて整粛であり、山岳のように屹立していた。三たび交南を定めてその威名は海外に聞こえた。四朝に歴事し帝室と縁組しながらも小心敬慎で、蹇(義)・夏(原吉)・三楊と心を一つにして輔政すること二十餘年、天下は平穏であった。これには輔の力があった。
  • 王振が権を擅にし、文武の大臣がその塵を望んで頓首する中、輔だけが対等の礼をとった。額森が入寇し、振が英宗の親征を導くと、輔も従軍したが軍の攻略には関与させてもらえず、老いた身で黙して敢えて発言しなかった。土木に至って難に死んだ。年七十五。定興王を追封され、諡は忠烈。

子孫

  • 子の懋は九歳で公を嗣いだ。憲宗が西苑で騎射を閲したとき、懋は三発連続で的中させ、金帯を賜わった。営府の職を歴掌し、累加して太師に至った。
  • かつて辺防の事宜を上言し、京營の兵を発して圓通寺を造ることを諫めて止めさせた。𢎞治中、御史の李興・彭程が下獄したとき論救した。また真武觀の造営をやめ、織造を免じ、織を監督する中官を召還することを請うた。武宗が即位して小人の輩と狎れ遊ぶと、懋は文武の大臣を率いて諫め、その言はみな切直であった。
  • ただし性は豪奢で、また軍士から搾取したので、しばしば言官に糾弾された。公を嗣ぐこと凡そ六十六年、兵権を握ること四十年、尊寵は勲臣の筆頭であった。正徳十年(1515年)に卒し、年もまた七十五。寧陽王を贈られ、諡は恭靖。萬厯十一年(1583年)、朱希忠とともに王号を削られた。
  • 孫の崙が嗣ぎ、爵は世澤に伝わったが、流寇が京師を陥れたとき害に遇った。

髙士文――交阯征討に死す

  • 輔が交阯を定めるにあたっては前後百餘戦を経たが、従軍して死んだ者のうち最も著名なのが髙士文と徐政である。
  • 髙士文は咸陽の人。洪武中に小校として雲南および金山の征に従って功をあげ、燕山左䕶衛百戸となった。質直剛果で騎射を善くした。成祖の挙兵に従い、累官して都督僉事。
  • 張輔に従って交阯を征し、黎季犛が擒えられた後、余党が山谷に潜んで出没し寇をなした。五年(1407年)八月、士文は自分の部隊を率いて廣源でこれを破り、その寨を囲んで昼夜急攻した。陥ちようとしたとき賊が突出して走り、士文が追って戦ったが、飛んできた石に当たって死んだ。部下がなお賊を追い、賊は巣を失って潰散し、指揮程瑒に滅ぼされた。
  • 朝廷は士文の功を思って建平伯を追封し、子の福に嗣がせ、禄千三百石と世劵を与えた。三代伝えて孫の霳に至り、子がなく義子を嗣としたが、事が発覚して爵は除かれた。

徐政――盤灘の守り

  • 徐政は儀真の人。建文のとき楊州衛副千戸で、城を挙げて成祖に降り、累遷して都指揮同知。
  • 交阯征討に従い、三帯江で船を奪って大軍を渡らせ、西都を陥とし、鹹子關に戦い、いずれも功があった。
  • 陳季擴が叛いたとき、盤灘の地が最も要衝であったので、張輔は政に守らせた。七年(1409年)八月、賊党の鄧景異が来襲し、戦って飛鎗が脇腹を貫いたが、なお兵を督して力戦し、ついに賊を破った。賊が退いたのち、腹の傷が潰れて死んだ。