明史卷一百五十四 列傳第四十二 黄福

出自と成祖への帰服

  • 黄福は字を如鍚といい、昌邑の人。洪武中に太學生から金吾前衛經厯を歴任し、上書して国家の大計を論じた。太祖はこれを奇として、抜擢して工部右侍郎とした。建文のときは深く信任された。
  • 成祖が姦黨二十九人を列挙したとき、福もその中に入っていた。成祖が京師に入ると福は迎えて帰服したが、李景隆が福を姦黨だと指弾した。福は「臣はもとより死に値します。ただ姦黨と目されることだけは心服できません」と言った。帝は不問に付し、その官を復した。まもなく工部尚書に拝された。
  • 永樂三年(1405年)、陳瑛が福は工匠をいたわらないと弾劾し、北京行部尚書に改められた。翌年、事に坐して捕らえられ詔獄に下り、為事官に充てられて謫せられたが、まもなく復職し、安南の軍餉を督した。

交阯の経営(永樂五年〜洪熙元年)

  • 安南が平定されてその地を郡県とすると、福に尚書のまま布政・按察二司の事を掌らせた。当時、遠方が定まったばかりで軍旅も止まず、庶務は繁劇であったが、福は事に応じて処置し、いずれも条理があった。
  • 上疏して次のことを請うた。交阯の賦税は軽重が一定しないので酌量して定め、なるべく軽減すること。瀘江の北岸に沿って欽州に至るまで衛所を設け驛站を置いて往来を便にすること。開中の法で塩を積み、商賈に粟を輸送させて軍儲を広め、官吏の俸廩は倉の粟が足りなければ公田で給すること。廣西の民の輸送は陸路が険しいので、廣東に海運二十萬石をさせて充てること。いずれも許可された。
  • そこで民の戸籍を編み、賦税を定め、学校を興し、官師を置いた。しばしば父老を召して天子の徳意を宣諭し、属吏には民を苛立たせぬよう戒め、すべて静をもって鎮めたので、上下は安らいだ。
  • 当時、些細な事で交阯に謫せられた群臣が多かったが、福はみな面倒を見て救い、賢者を選んで共に仕事をした。そのため赴任してくる者は故郷に帰るような思いであった。
  • 鎮守中官の馬騏が寵を恃んで民を虐げ、福はしばしばこれを抑えた。騏は福に異心ありと誣告したが、帝はその虚妄を察して問わなかった。
  • 仁宗が即位すると召還され、詹事を兼ねて太子を輔けた。福は交阯にあること凡そ十九年、還るときには交人が手を取り合って送り、号泣して別れを惜しんだ。福が還ると交阯の賊はいよいよ激しくなり、ついに鎮まらなかった。仁宗が崩ずると獻陵の工事を督した。

再び交阯へ、そして生還

  • 宣徳元年(1426年)、馬騏が交阯を刺激してふたたび叛乱が起きた。当時、陳洽が兵部尚書として福に代わっていたが、しばしば福を還して交阯を鎮撫させるよう奏請した。福が南京に使いする折に召されて闕に赴くと、敕して「卿が交人を恵愛して久しく、交人は卿を慕っている。朕のためにもう一度行ってくれ」と言い、工部尚書兼詹事として二司の事を領させた。
  • 到着したころには桞升がすでに敗死していた。福は走り還って雞陵關に至り、賊に捕らえられた。自殺しようとすると、賊は取り囲んで拝し泣いて「公は交の民の父母です。公が去られなければ我らはこんなことにはならなかった」と言い、力ずくで止めた。
  • 黎利はこれを聞いて「中国が官吏を遣わして交阯を治めるのに、一人一人が黄尚書のようであったなら、私がどうして叛けようか」と言い、人を馳せ遣わして守護させ、白金と乾飯を贈り、輿で境外まで送らせた。福は龍州に至ると贈られた物をすべて返した。
  • 官に復して行在工部尚書となった。四年(1429年)、平江伯(陳瑄)とともに漕運の事を董し、江西・湖廣・浙江および江南北の諸郡に、地の遠近を量って粟を淮・徐・臨清に運ばせ、軍士に接いで北京まで運ばせることを議して実施し、民は大いに便とした。

足兵食の議と晩年

  • 五年(1430年)、兵食を足らし役を省く要点を陳べた。足食については、永樂年間には北京を営建し交阯を南討し沙漠を北征しても資用が乏しくなったことはないのに、近ごろは国に大きな出費がないのに歳用がやっと足りる程度で、水旱や征調があればどうやって凌ぐのか、と述べた。そこで操備・営繕の軍士十萬人を役して、濟寧以北・衛輝真定以東の河沿いで屯種させ、初年は自給、次年は一人五石、三年目はその倍を収めさせれば、京倉の口糧六十萬石を省き、さらに本衛の月糧百二十萬石を省き、歳に二百八十萬石を得られる、とした。
  • 帝はこれを善しとし、行在の戸部・兵部に議させた。郭資・張本は「沿河の屯田は実に便宜である。まず五萬頃を目安とし、近隣の居民五萬人を発して開墾させたい。ただし山東は近年の旱饑で流亡し、復したばかりの衛卒は力役が多いので、まず官を遣わして田を検分させ、開墾を待つべきである」と言い、帝は従った。吏部郎中趙新らに屯田を経理させ、福がこれを総括した。しかしその後、軍民にはそれぞれ本業があり、さらに田を分けて役すればいっそう労苦になると言う者があり、事はついに実施されなかった。
  • 戸部尚書に改められた。七年(1432年)、帝は宮中で福の漕事便宜の疏を読み、これを楊士竒に示して「福の言は智慮が深遠だ。六卿の中で誰が比肩できるか」と言った。士竒は「福は太祖に知られ、正直明果で、一心に国家を思っています。永樂の初めに北京行部を建てて疲弊を安んじ、交阯に使いして藩憲を総べ、いずれも実績があります。まことに六卿の及ばぬところです。福は年七十。後進の若い者が公堂に高く坐して政事を裁き、四朝の旧臣である福が朝夕奔走して疲れ果てるのは、国家が老を優遇し賢を敬う道ではありません」と答えた。帝は「そなたでなければこの言葉は聞けなかった」と言った。士竒はさらに「南京は根本の重地です。先帝は儲宮に監国させました。福は老成忠直で、緩急の際に頼りになります」と言い、帝は「そのとおりだ」と言って、翌日、福の官を南京に改めた。
  • 翌年、南京兵部を兼掌した。英宗が即位すると少保を加えられ、北京守備襄城伯李隆の機務に参贊した。留都の文臣が機務に参与するのは福に始まる。隆は福の言を用い、政は粛正され民は安んじた。正統五年(1440年)正月に卒した。年七十八。

人となり

  • 福は容儀が整い、みだりに談笑しなかった。六朝に歴事して建言が多く、公正廉恕で、常日ごろ人に信頼された。官にあっては華々しい名声を求めず、些細な事でも慎まぬことがなかった。国を憂えて家を忘れ、老いていよいよ篤かった。自分の暮らしはきわめて質素で、妻子にはわずかに衣食を給し、得た俸禄はただ賓客をもてなし窮乏を救うのに用いた。
  • 初め成祖が自ら大臣十人を書き出して解縉に評させたとき、福についてだけは「心を持すること平易正直、確かに守るところがある」と、少しも貶さなかった。
  • 福が南京で参贊したとき、李隆の側に坐したことがあった。士竒が「孤卿でありながら傍らに坐る者があろうか」と言い伝えると、福は「少保でありながら守備に贊する者があろうか」と答え、ついに態度を変えなかった。もっとも隆は福をきわめて恭しく待遇し、公務を退けば福を上座に推し、福も辞退しなかった。
  • 士竒が墓参りのため南京を通ったとき、福の病を聞いて見舞った。福は驚いて「公は幼主を輔佐し、一日も左右を離れてはならぬのに、なぜ遠出されるのか」と言った。士竒はその言葉に深く服した。
  • 兵部侍郎の徐琦が安南への使いから帰り、石城門外で福と会った。ある人が福を指して安南から来た者に「お前はこの大人を知っているか」と問うと、「南交の草木でさえ公の名を知っています。どうして知らぬことがありましょう」と答えた。
  • 福が卒したとき贈官も諡もなく、士論はひどく不平であった。成化の初めに至ってようやく太保を贈られ、諡は忠宣。