明史卷一百五十三 列傳第四十一 陳瑄

陳瑄(字は彦純、?–1433年、享年六十九)は合肥の人。父の職を継ぎ、若くして西南の諸蛮の征討に従って武功を重ね、四川行都司都指揮同知に至った。建文の末、舟師を率いて江上を守ったが、燕の兵が浦口に至ると迎え降り、成祖の渡江を助けて平江伯に封じられた。永樂元年から海運を総督し、のち宋禮の會通河開鑿と海運廃止を承けて漕運の監督に当たり、清江浦の開鑿、閘・倉・淺舖の設置など漕河の整備を三十年にわたって進めた。仁宗には七事を上疏して嘉納され、宣德六年には民運を兌運に改める法を建言した。在職のまま没し、平江侯を追封され恭襄と諡された。以下に子孫の陳豫・陳鋭・陳熊・陳圭・陳王謨と、陳瑄に代わって淮安に鎮した附伝の王瑜が続く。

年表(16件)

出自と西南の従軍

  • 陳瑄は字を彦純といい、合肥の人。父の聞は義兵千戸として太祖に帰し、累進して都指揮同知となった。陳瑄が父の職を継いだ。父が事に坐して遼陽に戍ることになったとき、陳瑄は闕に伏して代わることを請い、詔してその父子ともに宥された。
  • 陳瑄は若くして大将軍の幕下に従い、雁を射ることで称された。しばしば南番の征討に従い、また越嶲を征し、建昌の叛いた番の嚕吚特穆爾を討ち、梁山を越えて天星寨を平らげ、寧番の諸蠻を破り、また鹽井を征した。
  • 卜木瓦寨を攻めたとき、賊の勢いがたいそう盛んで、陳瑄は中軍を率いていたが幾重にも囲まれた。陳瑄は馬を下りて射たが足を傷つけられ、傷を包んで巳の刻から酉の刻まで戦い、軍を全うして還った。
  • また賈哈喇の征討に従い、奇兵をもって達崇河を渡り、間道を得て浮橋を作って軍を渡した。渡り終えると橋を取り払い、士卒に引き返さぬ覚悟を示し、連戦して賊を破った。
  • また雲南の兵と合流して百夷を征し、功があって四川行都司都指揮同知に移った。

靖難と平江伯

  • 建文の末、右軍都督僉事に移った。燕の兵が迫ると、舟師を総べて江上を防ぐよう命じられた。燕の兵が浦口に至ると、陳瑄は舟師をもって迎え降り、成祖はそこで江を渡った。
  • 即位すると平江伯に封じ、禄一千石を給し、誥券を賜って指揮使を世襲させた。

海運の総督

  • 永樂元年(1403年)、陳瑄を總兵官として海運を総督するよう命じ、粟四十九萬石余りを運んで北京および遼東に給し、そこで直沽の天津衞城に百萬倉を建てた。
  • これより先、漕運の舟が海上を行くと島の人は漕運の兵卒を畏れて多くは戸を閉ざして隠れた。陳瑄は招いて互いに市を開かせ、その値を公平にしたので、人々は交易を便利とした。
  • 運送の舟が還るとき、倭寇が沙門島を襲ったので、陳瑄は追撃して金州の白山島に至り、その舟をほとんど焼き尽くした。
  • 永樂九年(1411年)、豊城侯李彬とともに浙・閩の兵を統べて海賊を捕らえるよう命じられた。
  • 海が溢れて堤が崩れ、海門から鹽城まで百三十里に及んだので、陳瑄に四十萬の兵卒でこれを築き治めさせ、潮を防ぐ堤一萬八千余丈を作った。
  • 翌年(1412年)、陳瑄が述べた。嘉定の海に臨む地は江の流れが合わさる所で、海の舟がここに停泊するが、依るべき高い山や大きな丘がない。青浦に方百丈・高さ三十余丈の土山を築き、堠を立てて目印としたい、と。完成すると「寶山」の名を賜り、帝は自ら文を作ってこれを記した。

漕運の整備

  • 宋禮が會通河を治め終え、朝廷が海運を廃止する議をすると、なお陳瑄に漕運を監督させ、淺船二千余艘を造ることを議した。はじめの運送は二百萬石であったが、しだいに五百萬石に至り、国用はこれで豊かになった。
  • 当時、江南の漕運の舟は淮安に着くと、おおむね陸路で壩を越え、淮を渡って清河に達しており、労と費がたいそう大きかった。
  • 永樂十三年(1415年)、陳瑄は古老の言を用い、淮安城の西の管家湖から二十里の渠を鑿って清江浦とし、湖の水を淮に導き、四つの閘を築いて時に応じて流し、また湖に沿って十里の堤を築いて舟を引いた。これにより漕運の舟は直接河に達し、費用の節約は計り知れなかった。
  • その後さらに徐州を助け、寧河を浚えた。また吕梁洪が険悪であったので、その西に別に一渠を鑿ち、二つの閘を置いて水を貯めて漕運を通じた。
  • また沛縣の刁陽湖・濟寧の南旺湖に長堤を築き、泰州の白塔河を開いて大江に通じ、また高郵湖の堤を築き、堤の内側に四千里を鑿って風波の険を避けた。
  • また淮から臨清まで水勢を見て閘四十七を置き、淮上に常盈倉四十区を作り、徐州・臨清・通州にもみな倉を置いて転輸を便にした。
  • 漕運の舟が浅瀬で座礁することを慮り、淮から通州まで舎五百六十八を置き、舎ごとに卒を置いて舟を導いて浅瀬を避けさせた。さらに河の堤に沿って井を鑿ち木を植えて通行人の便とした。
  • 計画するところはみな精密で遠大であった。自ら漕河を管理すること三十年、遺漏のない策ばかりであった。

仁宗への七事の上疏

  • 仁宗即位の九月(1424年)、陳瑄は疏を上げて七事を陳べた。
  • 一、南京は国家の本であるから、守備を厳しくされたい。
  • 二、推挙は実情をよく調べるべきで、資格をなぞってはならない。朝臣の公正な者を選んで天下を分けて巡らせるべきである。
  • 三、天下の年ごとの糧餉の運送について、湖廣・江西・浙江および蘇松の諸府はみな北京から遠く、往復に一年を越えるので、上は公租を滞らせ下は農事を妨げる。淮・徐などの地まで運ばせ、別に官軍に接いで京まで運ばせられたい。また快船・馬船の積むところは五、六十石にすぎず、船ごとの官軍で足りるのに、役所が軍民を差し添えて送らせ、集めて待機させるので凍え飢える者まで出ている。これを廃止されたい。
  • 四、教職には適任でない者が多い。職に堪えぬ者を考査して退け、俊秀を選んで生員を補い、軍中の子弟にも入学させられたい。
  • 五、軍伍の逃亡について、その老いた者・病んだ者を調べて子弟に代えさせ、逃亡した者は追って補い、家が絶えた者は確かめて除かれたい。
  • 六、開平などの辺防の要地は兵と食が乏しい。鋭い兵を選び練り、屯守を兼ね務めさせられたい。
  • 七、漕運の官軍は毎年北上し、帰るとすぐ船を修理して一年中勤め苦しんでいるのに、所属の衞所がさらにその合間に雑役を課していっそう困らせている。これを厳禁されたい。
  • 帝は奏を見て「陳瑄の言はみな当を得ている。担当の役所に速やかに行わせよ」と言い、敕を降して奨め諭した。まもなく券を賜って平江伯を世襲させた。

宣宗朝と兌運の始まり

  • 宣宗が即位すると、淮安を守り漕運を監督することを従前どおり命じた。
  • 宣德四年(1429年)、濟寧以北の長溝から棗林までが埋まっており、十二萬人を用いれば半月で浚えられると述べた。帝は陳瑄が長く労していることを思い、尚書黄福を遣わしてともに経理させた。
  • 宣德六年(1431年)、陳瑄が述べた。毎年の糧の運送に軍十二萬人を用い、年々の労苦が続いている。蘇松の諸郡および江西・浙江・湖廣で別に民丁を徴し、また軍の多い衞所からも兵を徴して、あわせて二十四萬人とし、番を分けて交互に運ばせたい。また、江南の民が糧を臨清・淮安・徐州に運ぶと往復一年かかり農業を損なうが、湖廣・江西・浙江および蘇松・安慶の軍士は毎年空の舟で淮安に赴いて糧を積んでいる。江南の民に糧を近くの衞所の官軍に渡させて京まで運ばせ、目減り分の米と道中の費用を量って給すれば、軍民ともに便宜である、と。
  • 帝は黄福および侍郎王佐に議して行わせた。民運を改めて兌運とすることはこれに始まる。
  • 宣德八年(1433年)十月、在職のまま没した。年六十九。平江侯を追封され、太保を追贈され、恭襄と諡された。
  • はじめ陳瑄は河を浚えて民に徳があったので、民は清河縣に祠を立てた。正統年間、役所に春秋の祭を行うよう命じた。

陳豫――孫

  • 孫の豫は字を立卿という。書を読み謹み深かった。
  • 正統の末、福建沙縣の賊が起こると、副總兵として寧陽侯陳懋に従い道を分けてこれを討ち平らげ、進んで侯に封じられた。
  • 額森が侵入すると、出て臨清に鎮し、城堡を建て兵を練り民を撫し、安らかで騒がせなかった。翌年召し還されたが、父老が闕に詣でて留任を請い、許された。
  • 景泰五年(1454年)、山東の飢饉に詔を奉じて賑恤し、まもなく南京を守備した。天順元年(1457年)、召し還され、歳禄百石を加えられた。天順三年(1459年)に没し、黟國公を追贈され、莊敏と諡された。

陳鋭――曾孫

  • 子の鋭が伯を継いだ。成化の初め、三千營および團營を分けて掌り、まもなく平蠻將軍の印を帯びて兩廣を総制した。
  • 淮安に移り鎮して漕運を総督し、淮河口の石閘および濟寧の分水南北二閘を建て、堤を築き泉を疏え、廃れたものを修め起こした。漕運を総べること十四年、上奏した章は数十に及んだ。
  • 日本の貢使が民の男女数人を買って帰ろうとし、淮安を通ったとき、鋭は留めて行かせず、代価を払ってその家に返した。
  • 淮・揚に飢えと疫病が出たときは、粥を煮て薬を施し、多くの命を救った。
  • 𢎞治六年(1493年)、黄河が張秋で決壊したので、敕を奉じて塞ぎ治め、還って禄二百石を加えられ、累進して太傅兼太子太傅を加えられた。
  • 𢎞治十三年(1500年)、和碩が大同を侵したので、鋭は總兵官として將軍の印を帯びて援けに赴いたが、着いてから兵を擁して自ら守るだけだったので、給事中・御史に弾劾され、禄を奪われて閑居させられた。その年に没した。

陳熊――劉瑾との対立

  • 子の熊が継いだ。正德三年(1508年)、出て漕運を監督した。劉瑾が金銭を求めたが熊が応じなかったので恨まれ、事に坐して逮えられて詔獄に下され、海南衞に謫戍され、誥券を奪われた。
  • 熊はもともと財貨を貪り、淮南にあってかなり民を害していたので、劉瑾に陥れられたとはいえ、惜しむ人はなかった。劉瑾が誅されると赦されて還り、爵を回復して没した。子がなかった。

陳圭――両廣の平定

  • 再従子の圭が継いだ。推薦により出て兩廣に鎮した。
  • 封川の賊が起こると、圭は諸将を督して討ちに赴き、その頭目を捕らえ、俘斬は数千に上り、太子太保を加えられた。また柳州・慶遠および賀・連の山の賊を平らげ、太保を加えられ、一子に蔭を与えられた。
  • 安南の范子儀らが欽州・廉州を侵し、黎岐の賊が瓊州・厓州を侵して互いに角をなしたとき、圭は安南に文を送って利害を諭し、子儀を縛らせ、急いで兵を出して黎岐を攻めて敗走させた。功を論じてまた一子に蔭を与え、歳禄四十石を加えられた。
  • 圭はよく士卒と甘苦をともにし、賊のありかを聞けばそのつど甲を着けて先登し、深い竹藪や切り立った谷にも、瘴毒を冒して避けるところがなかった。それゆえ向かうところ勝ち、粤にあること十年に及び、殲滅した小さな賊は数え切れなかった。
  • 召し還されて後軍府を掌った。

陳圭――京営と外城の築造

  • 圭の妻の仇氏は咸寧侯仇鸞の妹であった。圭は深く仇鸞を憎み、仇鸞はしばしば世宗に圭を讒したので、危うく罪を得るところであった。仇鸞が失脚すると、帝はいっそう圭を重んじ、京營の兵を総べるよう命じた。
  • 敵が紫荊關に入ったとき、圭は出撃を請うて盧溝に陣を張ったが、敵が退いたのでやめた。翌年、敵がまた古北口に入り、ある者が九門に営を並べて備えるよう議したが、圭はいたずらに弱みを見せるだけで益がないとした。敵もまもなく退いた。
  • 京師の外城の築造を監督し、太子太傅を加えられた。没して太傅を追贈され、武襄と諡された。

陳王謨――万暦期まで

  • 子の王謨が継いだ。後軍を僉書し、出て兩廣に鎮した。賊の張璉が数郡を掠め殺していたので、王謨は総督張臬とともにこれを討ち平らげ、擒斬は三萬余りに上った。功を論じて太子太保を加えられ、一子に蔭を与えられた。
  • 萬曆年間、出て淮安に鎮し漕運を総べ、入って前軍府の事を掌った。没して少保を追贈され、武靖と諡された。
  • 明の滅亡まで伝えられ、爵は絶えた。

王瑜――附伝の出自と趙王府の陰謀の告発

  • 王瑜は字を廷器といい、山陽の人。總旗として趙王府に属した。
  • 永樂の末、常山護衞指揮の孟賢らが宦官の黄儼と結び、帝を弑し太子を廃して趙王を立てることを謀った。その一味の高正は王瑜の舅であり、ひそかに王瑜に告げた。王瑜は大いに驚き、「なんということを。族滅の元だ」と言って涙を流して諫めたが聴かれなかった。高正は謀が漏れることを恐れて王瑜を殺そうとした。そこで王瑜は闕に詣でて変を告げた。取り調べると証があり、孟賢らはことごとく誅に伏し、王瑜は遼海衞千戸に任じられた。
  • 仁宗が即位すると錦衣衞指揮同知に抜擢され、手厚く賜与を受け、あわせて同僚には事を必ず王瑜に告げてから行うよう戒めた。王瑜は大体を守り、苛細に流れなかったので、廷中はその賢を称えた。

王瑜――淮安での漕運と善政

  • 宣德八年(1433年)、都指揮僉事に進み、左副總兵として陳瑄に代わって淮安に鎮し、漕運を監督し、累進して右軍都督僉事となった。淮安は王瑜のもとの郷里であったので、人はこれを栄誉とした。
  • 淮に任じること数年、陳瑄の定めた法を守って変えず、善い政治があった。
  • 民に、親が存命なのに弟と財産を争って訴えた者があった。王瑜は「弟を訴えるのは友でなく、親を無みするのは孝でない」と言い、杖打って退けた。
  • また、金を借りて償えず、舅と婿、兄と弟が互いに訴え合うに至った者があった。王瑜は「どうして財のために恩を傷つけるのか」と言い、そのまま代わりに償ってやり、睦まじくするよう勧めた。
  • 二人の兵卒が破船の板一枚を盗んだのを、役所が官物を盗んだとして死罪に当てた。王瑜は「二人の卒の命が破船の板一枚に当たるのか」と言い、ついに減刑を得た。
  • 凶作の年には官の倉を開いて賑わせた。
  • しかし性が財貨を好んだので英宗に厳しく責められ、また以前に摘発した不軌の事にも枉げたところがあった。
  • 正統四年(1439年)、議事のため京に入って病を得た。両手を高く吊るされたような形に縛られたようになり、助けを叫んで解こうと求めながら没した。