明史卷一百五十三 列傳第四十一 宋禮

宋禮(字は大本、?–1422年)は河南永寧の人。國子生から出て昇降を重ね、成祖の即位後に禮部郎、ついで工部尚書となった。永樂九年、埋まっていた會通河の開鑿を命じられ、汶上の老人白英の策を用いて戴村に堰を築き、汶水を南旺で南北に分けて閘を連ねる分水の法を立て、二十旬で工事を成した。これにより河運が通じ、陳瑄の江淮の工事とあいまって漕運は大いに便利となり、永樂十三年には海運が廃止された。北京造営の材木を求めてしばしば蜀に入り、在職のまま没した。性は剛毅で下僚に厳しく、没した日に家に余分の財はなかった。末に附伝として、宋禮に従って會通河を治め、堤と埽の法を献じた工部右侍郎藺芳が載る。

年表(16件)

篇目

  • この巻に伝を立てられたのは、宋禮・陳瑄・周忱の三人。巻頭の目録では陳瑄に王瑜が附されている。宋禮の伝の末には藺芳の附伝が続く。

出自と工部尚書

  • 宋禮は字を大本といい、河南永寧の人。
  • 洪武年間、國子生から山西按察司僉事に抜擢されたが、戸部主事に左遷された。建文の初め、推薦により陝西按察僉事に任じられ、また事に坐して刑部員外郎に左遷された。
  • 成祖が即位すると禮部の事を代行するよう命じられ、機敏で練達であるとして禮部郎に抜擢された。
  • 永樂二年(1404年)、工部尚書に拝せられた。かつて山東の屯田に牛と種を給することを請おうとし、また罪を犯して償う力のない者を労役に振り替える場合は北京に移して民とすることを請い、いずれも可とされた。
  • 永樂七年(1409年)、母の喪に遭ったが、詔して留まって職務を執らせた。

會通河の来歴

  • 永樂九年(1411年)、會通河を開くよう命じられた。
  • 會通河とは、元の至元年間に壽張の尹韓仲暉の建言により、東平の安民山から臨清まで河を鑿ち、汶水を引いて濟水を横切り衞河につないで漕運の道としたもので、會通と名づけられた。しかし岸が狭く水が浅くて重い積み荷に耐えなかったので、元の代を通じて海運が多かった。
  • 明の初めも遼東・北平に糧を運ぶにはもっぱら海運を用いた。洪武二十四年(1391年)、黄河が原武で決壊して安山湖を断ち切り、會通はついに埋まった。
  • 永樂の初め、北京を建てるにあたって河運と海運を併用したが、海運は険しく遠くて失われるものが多く、河運は江淮から陽武に達し、山西・河南の丁夫を発して百七十里を陸で曳いて衞河に入れ、順次に遞運所を経るもので、民はその労苦に苦しんだ。
  • ここに至って濟寧州同知の潘叔正が上言した。旧來の會通河四百五十余里のうち埋まっているのは三分の一であり、これを浚うのが便宜である、と。

會通河の開鑿と分水

  • そこで宋禮および刑部侍郎金純・都督周長にこれを治めるよう命じた。
  • 宋禮は、會通の水源は必ず汶水に頼るとして、汶上の老人白英の策を用い、堽城および戴村の□(底本欠字)を築いた。横に五里にわたり、汶の流れを遮って南して洸に入らず北して海に帰するようにし、諸々の泉の水を集めてことごとく汶上に出させ、南旺に至ってこれを二道に分けた。南に流れて徐・沛に接するものが十分の四、北に流れて臨清に達するものが十分の六である。南旺は地勢が高く、その水を切れば南北いずれにも注ぐので、水の分水嶺となるものであった。
  • そこで地形を見て閘を置き、時に応じて貯め流した。分水の地点から北は臨清まで地が九十尺下がるので閘十七を置いて衞に達し、南は沽頭まで地が百十六尺下がるので閘二十一を置いて淮に達した。
  • およそ山東および徐州・應天・鎮江の民三十萬を発し、租百十萬石余りを免除し、二十旬(二百日)で工事が完成した。
  • また、沙河を浚えて馬常泊に入れて汶を増すことを奏した。詳しくは河渠の志にある。
  • この年、帝はさらに工部侍郎張信の言を用い、興安伯徐亨・工部侍郎蔣廷瓚に金純と合流して祥符の魚王口から中灤の下まで浚え、旧來の黄河の道を復して水勢を殺ぎ、河が漕運を妨げないようにさせ、宋禮にこれも兼ねて監督させた。
  • 八月に京師に還り、工事の第一と論じられて上等の賞を受けた。潘叔正にも衣と鈔が賜られた。

衞河の水患と海運の廃止

  • 翌年(1412年)、御史許堪の言により衞河の水患が問題となったので、宋禮に赴いて計画させた。宋禮は、魏家灣から支河二本を開いて水を土河に流し込み、さらに德州の西北から支河一本を開いて水を旧來の黄河に流し込み、海豊の大沽河に至って海に入れることを請うた。帝は秋の収穫を待って行うよう命じた。
  • 宋禮は還って述べた。海運は険阻を経るので毎年船が損なわれ、漂没する者もある。役所が修理・補充するにも期限に迫られて多くを民から取り立てるので民の害となり、しかも船は堅くない。計算すれば、海船一艘は百人を用いて千石を運ぶが、その費用で二百石積みの河船二十艘をまかなえる。二十艘なら十人を用いて四千石を運べる。これで論ずれば利害は明白である。鎮江・鳳陽・淮安・揚州および兖州の糧あわせて百萬石を割いて河運で北京に給し、海路は三年に二度の運送とされたい、と。
  • ほどなく平江伯陳瑄が江淮の間の諸河の工事を治めたのも相次いで完成したので、河運は大いに便利になり、漕運の粟はいっそう増え、永樂十三年(1415年)にはついに海運を廃止した。

採木と晩年

  • はじめ帝が北京を営もうとしたとき、宋禮に川蜀で材を取るよう命じた。宋禮は山を伐って道を通じ、奏して述べた。得た大木数株はみな尋丈のもので、一夜のうちに自ら谷中から出て江のほとりに至り、その音は雷のようであったが、草一本倒れていなかった、と。朝廷はこれを瑞祥とした。
  • 河の工事が成ると、また木を採るために蜀に入った。
  • 永樂十六年(1418年)、江西で獄を治めるよう命じられ、翌年(1419年)、蜀で番舟を造っていたところから召し還され、老いと病により朝参を免ぜられ、奏事があれば侍郎に代行させた。
  • 永樂二十年(1422年)七月、在職のまま没した。
  • 宋禮は性が剛毅で下僚を厳しく急き立てて御したので、事を成しやすかったが、そのために人に親しまれもしなかった。没した日、家に余分の財はなかった。
  • 洪熙改元(1425年)、禮部尚書吕震が制どおりに葬祭を与えるよう請うた。𢎞治年間、主事の王寵がはじめて祠を立てることを請い、詔して南旺湖のほとりに祀り、金純・周長を配享させた。隆慶六年(1572年)、宋禮に太子太保を追贈した。

藺芳――附伝の出自と吉安知府

  • 藺芳は夏縣の人。洪武年間に孝廉に挙げられ、累進して刑部郎中となった。
  • 永樂年間、出て吉安知府となった。寛厚清廉で、民はたいそうこれを徳とした。
  • 吉水の民が闕に詣でて県に銀の鉱脈があると述べ、使者を遣わして調べさせた。父老が藺芳をさえぎって訴えた。「聞くところでは宋の末にもこれを言った者があったが、結局でたらめとして罪を得ました。いまはみな植え付けをしている土地です。どこに銀鉱がありましょう」。藺芳が告げた者を問い詰めたところ、その誣であることが分かった。獄が整ったが、同僚は署名を憚った。藺芳はひとりでこれを引き受けることを請い、奏が上ると帝は「われはもとよりでたらめだと知っていた」と言い、取りやめさせることができた。

藺芳――治水と工部侍郎

  • のち事に坐して辦事官に謫され、宋禮に従って會通河を治め、また工部都水主事となった。
  • 永樂十年(1412年)、黄河が陽武で決壊して中牟・祥符・尉氏に流れ込んだので、藺芳を遣わして視察させた。藺芳は述べた。中鹽の堤は激流に当たる所なので、さらに築いて塞ぐべきである、と。また、中灤から河の流れを分け導いて旧來の道を通って北して海に入れれば、まことに万世の利である、と。また、新しく築いた岸の埽(護岸の束)は草の縄だけを用いており堅く長持ちしない。木を編んで大きな囷(円い籠)を作り、その中に杭を貫き瓦や石を詰め、さらに木を横に杭の表に貫いて堤の上に引き締めれば、水を殺ぎ堤を固める長久の策である、と。詔してことごとくこれに従い、その後、堤を築く者はその法にならった。
  • 宋禮の推薦により工部右侍郎に抜擢された。
  • ほどなく行太僕卿の楊砥が、吳橋・東光・興濟・交河および天津の屯田は雨水で堤が決壊して作物を損なったので、德州の良店東南の黄河の旧道を開いて水勢を分けることを乞うた。ふたたび藺芳を遣わしてこれを治めさせた。通る郡邑に民の不便となる事があれば、そのつど疏を上げて奏聞した。工事が終わって還った。
  • 永樂十五年(1417年)十一月、在職のまま没した。
  • 藺芳は身を持することが倹約で、布の衣を着て粗食し、母に仕えて至孝であった。母はたいそう賢く、藺芳が処理した事は日暮れに必ず母に報告し、不当なところがあれば教え戒めた。藺芳は命を受けてはただ謹み、これによって良吏となった。