明史卷一百五十二 列傳第四十 孔公恂

出自と会試

  • 孔公恂は字を宗文といい、先聖(孔子)の五十八世の孫である。
  • 景泰五年(1454年)、會試に及第したが、母の病を聞いて廷対に赴かなかった。帝が禮部に問い、その事情をつぶさに述べたので、使いを遣わして召した。日はもう昼近くで試験の答案用紙を備える間がなく、翰林院に筆と紙を給させた。及第するとすぐに母の喪に服して帰った。
  • 衍聖公孔彦縉が没し、孫の𢎞緒が幼かったので、禮部の郎を遣わして喪を治めさせるよう詔し、孔公恂がその家事を取り仕切った。

東宮の輔導と晩年

  • 天順の初め、禮科給事中に任じられた。𢎞緒はすでに封を継いでおり、大學士李賢が娘を嫁がせていたので、孔公恂もこれによって李賢と交わりを得た。
  • 李賢は「孔公恂は大聖人の後、贊善の司馬恂は宋の大賢温國公司馬光の後である。太子の輔導に当たらせるべきである」と述べた。帝は喜んで同じ日に二人を少詹事に飛び越えて拝し、東宮の講読に侍らせた。そして入って孝肅皇后に「われは今日、聖賢の子孫を得てそなたの子の傅とした」と語った。孝肅皇后とは憲宗の生母で、ちょうど皇貴妃として寵を得ていたが、そこで冠服を着けて拝謝した。宮中ではこれを盛事と伝えた。
  • 憲宗が位を継ぐと孔公恂を大理左少卿に改めたが、孔公恂は法律に通じていないと述べたので、また少詹事に戻された。
  • 成化二年(1466年)、章を上げて兵事を論じたところ、諸々の武臣が騒ぎ立て、給事中・御史がこもごも章を上げて論駁したので、獄に下され漢陽知府に謫された。まだ着かぬうちに父の喪に服し、服喪が明けると、商輅が建言によって罪を得た者の官を復すよう請うたので、元の秩に戻り、南京詹事府に臨んだ。久しくして没した。

司馬恂――附伝

  • 司馬恂は字を恂如といい、浙江山陰の人。
  • 正統の末、挙人から刑科給事中に抜擢され、累進して少詹事となった。憲宗が立つと國子祭酒を兼ねるよう命じられた。没して禮部左侍郎を追贈された。
  • 司馬恂は強記で敦厚、物に逆らうことがなかったが、官にあって表れ出た事跡はない。

史論

  • 贊に曰く。建文の初め、賢を尊び老を敬う節を修めたが、董倫は宿儒として重んじられた。表れ出た事跡は少ないとはいえ、いいかげんな者ではなかったはずである。儀智父子は代を重ねて儒術によって進み、従容として輔導した。まことに賢というべきであろう。鄒濟ら数人は宮僚として遇されながら讒言と讒構をまぬかれなかった。陳濟らは布衣から身を起こして禁近に列し、よく始めと終わりを全うした。まことに幸不幸があるものである。二人の周(周述・周孟簡)、王英・錢習禮・周叙・柯潛は謙和で率直信実、それぞれその美を著した。いずれも浮華で博識をひけらかすだけの徒とは異なっていた。