出自と董仲舒従祀の建言
- 楊砥は字を大用といい、澤州の人。
- 洪武の末、進士から行人司右司副に任じられた。
- 上疏して述べた。揚雄は王莽の大夫となって万世の譏りを残した。董仲舒の天人三策および「義を正して利を謀らず、道を明らかにして功を計らず」の言は世の教えを助けるに足る。いま孔子廟の従祀に揚雄があって董仲舒がないのは正しくない、と。帝はこれに従った。
- 湖廣布政司參議を歴任した。
- 建文年間、「帝堯の徳は九族を親しむことから始まった。いま諸藩を厚く睦まじくすべきで、自ら枝葉を剪ってはならない」と述べたが、返答はなかった。父の喪で帰った。
北京行太僕寺卿としての水利と牧馬法
- 成祖が即位すると起用されて鴻臚寺卿となったが、喪を終えることを願い出た。服喪が明けると禮部侍郎に抜擢された。河渠の監督で職を失したことに坐して工部主事に降され、禮部に改まった。
- 永樂十年(1412年)、北京行太僕寺卿に移った。当時、呉橋から天津まで大水で堤が決壊し作物を損なっていたので、楊砥は德州東南の黄河の旧河道および土河を開いて水勢を殺ぐことを請うた。帝は工部侍郎藺芳にこれを経理させた。
- 牧馬の法を定めた。民は五丁で種馬一匹を養い、十馬ごとに羣頭一人、五十馬ごとに羣長一人を立て、馬を養う家は租糧の半分を毎年免除する。また薊州から東、山海に至る諸衞は土地が広く水草が豊かなので、その屯軍は一人につき種馬一匹を養わせ、租もまた半分を免ずる、と。帝は軍の租はすべて免除するよう命じ、他はことごとくその議に従った。これにより馬は大いに殖えた。
- 楊砥は剛直で守るところがあり、とりわけ孝行に篤かった。永樂十六年(1418年)、母の喪に哀しみのあまり身を損ない、家に着かぬうちに没した。