出自と陝西での治績
- 劉季箎は名を韶といい、字をもって通った。餘姚の人。
- 洪武年間の進士で行人に任じられ、朝鮮に使いして贈り物を退けた。帝はこれを聞いて衣と鈔を賜り、陝西參政に抜擢した。
- 陝西には滞納の賦があり、役所が厳しい刑で督したが民は納められなかった。劉季箎は着任すると同僚と手分けして郡県を回り、拘束されていた者をことごとく釈放して期限を緩めた。民はその徳に感じ、ことごとく完納した。
- 陝西は碙砂(硇砂)を産しないのに毎年その課税があったので、劉季箎は朝廷に申し出てこれを廃止させた。
- 洪渠の水が溢れたので堰を築いて貯めたり流したりできるようにし、永く利をもたらした。
刑部での断獄
- 建文年間、召されて刑部侍郎となった。
- 盗賊に引き合いに出された民が逮えられて来たが、盗賊はすでに死んでいた。そこで盗賊の妻子を召して顔を見分けさせ、その供述を聴いて誣告であるとし、釈放した。
- 吏が官銭を欠損させて千余人を誣告した件では、ことごとく弁明して免れさせた。
- 河陽の宿屋で、朱・趙の二人が別室に寝ていたところ趙が殺された。役所は朱が殺したと疑い、拷問して虚偽の自白をさせた。劉季箎ひとりが「もとからの遺恨でもなく、その荷物にも利するところがない」と言って裁きを緩めさせ、ついに趙を殺した者を捕らえ得た。
- 揚州の民家に夜盗が入って人を殺し、屍の傍らに刀を残した。刀には目印があり、隣家のものであった。役所が捕らえて取り調べると、隣人は「この刀を失って久しい」と言ったが、拷問に堪えず虚偽の自白をした。劉季箎は人に刀を懐に入れさせてその里に行かせ、ひそかに探らせたところ、一人の童子が「これは我が家の物だ」と見分け、盗人がついに捕らえられた。
大典の編纂と晩年
- 永樂の初め、『大典』の編纂にあたり、姚廣孝・鄭賜および劉季箎にその総括を命じた。
- 永樂八年(1410年)、失出(罪を軽く処断したこと)に坐して獄に下され、外任に謫された。ためらって赴かないうちに再び獄に下され、久しくして初めて釈された。儒服のまま翰林院に隷して編纂に当たるよう命じられ、まもなく工部主事に任じられ、在職のまま没した。