明史卷一百五十 列傳第三十八 陳夀

出自と皇太子の信任

  • 陳夀は隨の人。
  • 洪武年間、國子生として戸部主事に任じられた。永樂元年(1403年)に員外郎に移り、出て山東參政となった。赴く先々で民を愛することを務めとした。
  • 夏原吉の推薦により召されて工部左侍郎となった。
  • 皇太子が南京で監國したとき、陳夀は日々兵民の困窮を陳べ、また折を見て、左右で恩沢を求める者が多く、明徳を傷つけるおそれがあると述べた。太子は深くこれを容れ、かつて見送って出たあと侍臣を顧みて「侍郎のうち第一の人物である」と言った。
  • 永樂九年(1411年)、漢王高煦の讒言により獄に下された。貧しくて朝夕の食にも事欠いたが、属官が贈ろうとしても拒んで受けず、ついに獄中で死んだ。一年余りして棺を開いたところ、生けるがごとくであった。
  • 仁宗が即位すると工部尚書を追贈し、敏肅と諡した。子の瑺を中書舍人に任じ、のちにやはり工部侍郎に至った。

馬京――附伝

  • 陳夀とともに獄に下されて死んだ者に馬京・許思温がいる。
  • 馬京は武功の人。洪武年間の進士で翰林に任じられ、左通政・大理卿を歴任した。
  • 永樂元年(1403年)、行部左侍郎となった。皇太子が北京を守ったとき輔導を兼ねるよう命じられ、誠を尽くして翼賛したので太子はたいそう重んじた。
  • しばしば高煦に讒せられ、廣西に謫戍された。さらに先の事に坐して逮えられ獄に下された。
  • 仁宗が立つと少傳を追贈され、文簡と諡された。

許思温――附伝

  • 許思温は字を叔雍といい、呉の人。
  • 國子生として刑部主事を代行し、累進して北平按察副使となった。燕の軍が起こると許思温は城の守りを助けて功があり、刑部侍郎に抜擢され、吏部に改まって贊善を兼ねた。
  • やはり讒言により獄に下され、いずれも痩せ衰えて死んだ。
  • 仁宗は吏部尚書を追贈し、子の俊を贊禮郎に任じ、翰林で学ばせた。