出自と賜名
- 蹇義は字を宜之といい、巴の人。初めの名は瑢。洪武十八年(1385年)の進士で、中書舍人を授かった。
- 上奏が意に適ったので、帝は「汝は蹇叔の後裔か」と問うた。瑢は頓首して敢えて答えなかった。帝はその誠実篤実を嘉して名を「義」と改め、手ずから書いて賜わった。
- 三年が満ちて遷るべきところ、特に九年を満たすよう命じ、「朕はやがて義を用いる」と言った。これより朝夕に左右に侍し、小心に敬い慎んで、逆らう顔色を見せたことがなかった。
建文から永樂へ
- 惠帝が即位すると、太祖の意を推して吏部右侍郎に抜擢した。当時は齊泰・黄子澄が国政を執り、外には大軍を興し、内には制度を改めたが、蹇義には建言するところが無かった。國子博士の王紳が書を寄せて責めたが、蹇義は答えられなかった。
- 燕の軍が入ると迎えて帰附し、左侍郎に遷り、数か月で尚書に進んだ。
- 当時はもっぱら建文の政を覆すことに努め、改められた制度はことごとく廃された。蹇義は落ち着いて「損益は時宜に適うことが貴い。先に改められたものが不当であったのは確かだが、今すべて元に戻そうとするのも、必ずしも当を得ていない」と言い、いくつかの事例を挙げてその本末を説いた。帝は善しとしてその言に従った。
東宮の監国補佐
- 永樂二年(1404年)、太子詹事を兼ねた。帝が太子に伝諭することがあれば必ず蹇義を遣わした。蹇義は意を細やかに導くことができたので、帝も太子もともに愛重した。
- 七年(1409年)、帝が北京を巡ると、皇太子を輔けて監国させた。蹇義は典故に通じ治体に達していたので、軍国の事はみな彼に頼って処理された。
- 当時、旧臣で親任された者としては戸部尚書の夏原吉が蹇義と名を並べ、中外は「蹇夏」と称した。三度の考課が満ちると、帝は自ら二人を便殿で宴し、褒め称えることきわめて厚かった。
- たびたび命を受けて他部の事を兼理し、職務が山積したが、悠々と処理した。
巡行と投獄
- 十七年(1419年)、父の喪により帰郷したが、帝も太子も官を遣わして祭を賜わり、詔して起復させた。
- 十九年(1421年)、三殿が火災に遭い、廷臣二十六人に敕して天下を巡行させた。蹇義と給事中の馬俊は應天諸府を分担して巡り、軍民の疾苦を尋ね、文武の長官で民を煩わせた者数人を罷免し、興すべき事・革めるべき事数十条を箇条書きにして奏し、施行させた。還って部の事を治めた。
- 翌年、帝が北征から還り、太子が吕震の婿である主事の張鵬が朝参で儀を失した罪を寛く赦したことについて、蹇義が正さなかったとして、蹇義を逮えて錦衣衞の獄に繋いだ。さらに翌年の春に釈された。
仁宗の厚遇
- 仁宗が即位すると、蹇義と夏原吉はいずれも元老として中外の信望を得ていた。帝はさらに蹇義の監国のころの旧労を思って格別に頼りにした。
- まず蹇義を少保に進め、冠服・象笏・玉帯を賜わり、二つの俸禄を併せ給し、歴任して少師に進めた。銀印一つを賜わり、その文は「繩愆糾繆」であった。
- のちさらに璽書を賜わって言った。「かつて朕が監国したとき、卿は先朝の旧臣として日々左右に侍した。両京がようやく建てられ政務が繁多であったころ、卿は心を労し思いを焦がし、身も家も顧みなかった。二十余年、安危を通じて節を変えず、朕が大統を承けてからは治理を助け、怠らずいっそう恭しい。朕は深く思って忘れない。ここに自らの意で『蹇忠貞』の印を創り制して卿に賜わる。家に蔵して後世に伝え、朕と君臣が共に艱難を済い、相ともに成すところがあったことを知らしめよ」。
- 当時、楊士奇もまた「貞一」の印と敕を賜わっている。
- まもなく英國公張輔および夏原吉とともに『太宗實録』の監修を命ぜられた。
人となりと同僚との関係
- 蹇義は夏原吉よりもさらに重厚であったが、周到に過ぎるきらいがあった。楊士奇がかつて帝の前で「なにゆえそう考え過ぎるのか」と言うと、蹇義は「粗雑にして後の憂いとなるのを恐れるだけです」と答えた。帝は両方を是とした。
- 楊榮がかつて蹇義を謗ったとき、帝は楊榮を正しいとしなかった。蹇義は頓首して「楊榮に他意はありません。もし左右に楊榮を讒言する者があれば、どうか陛下は慎重にお調べください」と言った。帝は笑って「朕はもとより信じてはおらぬ」と言った。
宣宗の朝
- 宣宗が即位すると委任はいよいよ重くなった。当時ちょうど獻陵を造営中で、帝は遺詔に従って倹約したいと考え、蹇義と夏原吉に問うた。二人は「聖慮は高遠であり、至孝から出たもので、万世の利であります」と力めて賛成した。帝は自ら規画し、三か月で陵が成った。壮麗さは長陵に及ばず、その後の諸帝はこれを制とした。世宗の永陵に至って初めて崇侈に流れた。
- 帝が樂安を征したとき、蹇義・夏原吉および諸学士はみな従い、軍中の機務に与り、鞍馬・甲冑・弓剣を賜わった。還ると賞賜はきわめて厚かった。
- 三年(1428年)、巡辺に従って還ると、帝は蹇義・夏原吉・楊士奇・楊榮の四人がみな老いていることから璽書を賜わって言った。「卿らはみな祖宗の遺老であり、朕の身を輔けるよう託された者である。今は白髪となり歯も危うい。もはや煩雑な実務を掌るべきでなく、朝廷が老を優し賢を待つ礼を損なう。掌る職務は止めてよい。朝夕に朕の左右にあって至理を討論し、ともに国家を安んじよ。官と禄はすべて従来どおりとする」。
- 翌年、郭璡が代わって尚書となった。まもなく胡濙の言により、蹇義ら四人に天下の官吏・軍民の建言や章奏を議させた。さらに蹇義に銀印を賜わり、その文は「忠厚寛宏」であった。
- 七年(1432年)、有司に詔して文明門内に蹇義の新邸を営ませた。
死と人物評
- 英宗が即位したとき、斎宿して病を得た。医を遣わして診させ、言いたいことを問わせると、「陛下は初めて大宝を嗣がれました。願わくは祖宗の定めた法をつつしんで守り、終始変えられませんように」と答え、そのまま卒した。年七十三。太師を贈られ、諡は忠定。
- 蹇義は質実で真っすぐ、孝友であり、同僚との交わりも巧みで、一言たりとも人を傷つけたことがなかった。楊士奇はつねに「張詠が玩好を飾らなかったこと、傅堯俞が人に接するに誠をもってしたこと、范景仁が腹に含むところが無かったこと、蹇義はそのすべてを兼ね備えている」と言った。
- 子の英は詩で名があり、蔭によって尚寳司丞となり、太常少卿を歴任した。