明史卷一百四十九 列傳第三十七 夏原吉

出自と登用

  • 夏原吉は字を維喆といい、先祖は徳興の人。父の時敏が湘陰教諭となり、そのまま住み着いた。
  • 夏原吉は早くに父を失い、力めて学んで母を養った。郷試の推薦で太學に入り、選ばれて禁中に入り制誥を書写した。諸生が騒いで笑うなかで夏原吉だけが端然と坐していたので、太祖は密かに窺って感心し、戸部主事に抜擢した。
  • 曹務が煩雑に錯綜しても処理するとみな筋道が立った。尚書の郁新はたいそう重んじた。
  • 劉某という郎中がその才を妬んでいた。ちょうど郁新が諸司の職務怠慢を弾劾したとき、帝が赦そうとしたのを郁新が不可と主張した。帝は怒って「誰が汝に教えたのか」と問い、郁新は頓首して「堂の後ろの書算生です」と答えた。帝はそこで書算生を獄に下した。劉郎中は「尚書に教えたのは夏原吉です」と言った。帝は「原吉は尚書を助けて部の事を治めることができる。汝はこれを陥れようというのか」と言い、劉郎中と書算生はともに市に棄てられた。

建文から永樂へ

  • 建文の初め、戸部右侍郎に推された。翌年、採訪使に充てられて福建を巡り、通過した郡邑で吏の治績を調べ、民の隠れた苦しみを尋ねたので、人はみな悦服した。久しくして蘄州に駐屯を移した。
  • 成祖が即位すると、夏原吉を捕らえて献じる者があったが、帝は釈して左侍郎に転じた。ある者が「原吉は建文のときに用いられていたので信じられません」と言ったが、帝は聴かず、蹇義とともに尚書に進めた。
  • 蹇義らとともに賦役の諸制を詳定し、三十余事を建言したが、いずれも簡便で遵守しやすいものであった。夏原吉は「行っても続かないものは、かえって民を苦しめる。私にはそれが忍びない」と言った。

浙西の治水

  • 浙西で大水があり、有司が処置しても効果が無かったので、永樂元年(1403年)、夏原吉に治めさせた。まもなく侍郎の李文郁を副とし、さらに僉都御史の俞士吉に水利の書を持たせて賜わった。
  • 夏原吉は、禹の三江が海に入った旧跡に沿って吳淞の下流を浚え、上は太湖に接続させ、土地を測って水門を設け、時に応じて貯水・放流する策を請い、許された。役夫は十余万人。夏原吉は布衣で徒歩し、日夜計画に当たり、酷暑にも傘を差さず、「民が労しているのに、私だけがどうして楽をできようか」と言った。
  • 工事が終わって京師に還ると、「水は旧の水路によって海に入るようにはなりましたが、支流はまだ完全には疎通していません。長期の計とはなりません」と言った。
  • 翌年正月、夏原吉は再び赴いて白茅塘・劉家河・大黄浦を浚え、大理少卿の袁復が副となり、のちさらに陝西參政の宋性を補佐に命じた。九月に工事が終わり、水が捌けて蘇州・松江の農田は大いに利を得た。
  • 三年(1405年)に還った。その夏、浙西が大飢饉となり、夏原吉に俞士吉・袁復および佐通政の趙居任を率いて賑恤に赴かせ、粟三十万石を出して牛と種を給した。水が退いた後の淤田に民を小作させて賦を増やすよう請う者があったが、夏原吉は急ぎ上疏して止めさせた。
  • 姚廣孝が浙西から還って夏原吉を称え、「古の遺愛の人である」と言った。

戸部の経営

  • まもなく郁新が卒し、召し還されて部の事を治めた。まず冗費の削減、賦役の平準、塩法および銭鈔の禁の厳格化、倉場の清査、屯田の拡大による辺境への供給を請い、民を安んじ商賈にも便としたが、いずれも許された。
  • 中外の戸口・府庫・田賦の増減の数を、それぞれ小さな札に書いて懐に入れ、たえず点検していた。ある日、帝が天下の銭穀の額を問うと、答えはきわめて詳細で、これによっていよいよ重んぜられた。
  • このとき兵乱が収まったばかりで、靖難の功臣を論じて封賞し、諸藩を分封し、武衞と百司を増設した。のちにはまた兵八十万を発して安南の罪を問い、中官が巨艦を造って海外の諸国と通じ、北都の宮闕を大々的に起こしたので、供給と輸送は巨万をもって数える額に上ったが、いずれも戸曹から支出された。夏原吉は心を尽くして計算しこれに応じ、国用は不足しなかった。
  • 六年(1408年)、軍民を監督して北都へ資材を輸送させたとき、詔で錦衣の官校を従わせ、怠慢な者を処罰させることになった。夏原吉は違反者が多くなることを慮り、あらかじめ告げ戒めてから出発したので、人はみな感じ悦んだ。
  • 七年(1409年)、帝が北巡すると、行在の禮部・兵部・都察院の事を兼摂するよう命ぜられた。二人の指揮が月々の禄米を偽って受け取り、帝が斬ろうとした。夏原吉は「律にありません。もし本当に盗んだのなら、それ以上どのような刑を加えられるのですか」と言い、取り止めになった。

北京留守と太孫の輔佐

  • 八年(1410年)、帝が北征すると、太孫を輔けて北京に留守し、行在の九卿の事を総べた。当時は諸司が創設されたばかりで、毎朝、夏原吉が入って太孫を助けて庶務を裁決した。朝廷の諸曹の郎と御史が取り囲んで指示を求めても、夏原吉は口で答え手で書き、顔色一つ動かさなかった。北は行在に通じ、南は監国に啓し、京師は粛然としていた。帝が還ると鈔・幣・鞍馬・供物を賜わり、ねぎらいはひとしおであった。
  • まもなく従って南京に還り、太孫に侍して村里をあまねく巡り、民間の疾苦を観るよう命ぜられた。夏原吉は漬物と黍飯を取って進め、「どうか殿下、これを召し上がって民の苦しみをお知りください」と言った。
  • 九年の考課が満ちると、蹇義とともに便殿で宴を賜わった。帝は二人を指して群臣に「高皇帝が賢を養って朕に遺された。古の名臣を見たいと思うなら、この人たちがそれだ」と言った。
  • これより後、たびたび太孫に侍して両京を往来し、道中でも事に応じて忠を尽くし、益するところが多かった。

三殿火災と直言

  • 十八年(1420年)、北京の宮室が成り、夏原吉を南に遣わして太子・太孫を召して還らせた。夏原吉は「連年の造営が今また完成しました。流亡した民を撫し、滞納を免じて民力を寛くすべきです」と言った。
  • 翌年、三殿が火災に遭うと、夏原吉は改めて先の請いを申し述べ、帝は急ぎ担当官に施行を命じた。
  • 初め、火災を理由に詔して直言を求めたところ、群臣の多くが北京に都することの不便を言った。帝は怒って主事の蕭儀を殺し、「遷都のとき大臣と密かに議し、長い時をかけて決めたのだ。軽々しく決めたのではない」と言った。言った者はそこで大臣を弾劾したので、帝は午門の外に跪かせて対決させた。大臣は争って言者を罵ったが、夏原吉ひとりが「彼らは詔に応じたのですから罪はありません。臣らは大臣の員に列しながら大計を助け賛けることができませんでした。罪は臣らにあります」と奏した。帝の意は解け、双方とも赦された。
  • ある者が夏原吉が初めの議に背いたと咎めると、「われらは長く事に仕えてきた。言が誤っていても幸い上は憐れんでくださる。もし彼らが罪を得れば、損なうところは小さくない」と言い、衆は初めて感服した。
  • 夏原吉は戸部にありながら、国家の大事はそのつど詳しく議するよう命ぜられた。帝は便殿や闕門に出御するたびに召してしばらく語り、左右にも聞こえなかったが、退けば謹み深く、何も与っていないかのようであった。

献策と人命の救済

  • 交阯が平定されたとき、帝が官を遷すのと賞を与えるのとどちらがよいかと問うと、「賞は一時の費えで限りがありますが、官を遷せば後日の費用が無限になります」と答え、帝は従った。
  • 西域の法王が来朝したとき、帝は郊外で労おうとしたが、夏原吉は不可とした。法王が入ってきたとき、夏原吉は見ても拝さなかった。帝は笑って「卿は韓愈に倣おうというのか」と言った。
  • 山東の唐塞兒が叛き、事が平定されて脅されて従った者三千余人が捕虜として到着すると、夏原吉は帝に請うてことごとく赦させた。
  • 谷王橞が叛き、帝が長沙に内通した者がいると疑ったとき、夏原吉は一族百口をもって保証すると請い、ようやく釈された。

北征反対と投獄

  • 十九年(1421年)冬、帝が大挙して沙漠を征そうとし、夏原吉と禮部尚書吕震・兵部尚書方賔・工部尚書吴中らに議させた。みな兵を出すべきでないと言ったが、まだ奏さぬうちに、たまたま帝が方賔を召し、方賔は軍を興す費用が乏しいと力説した。帝は不快になり、夏原吉を召して辺境の備蓄の多寡を問うた。
  • 夏原吉は「近年、軍を出しても功が無く、軍馬と備蓄は十のうち八、九を失いました。災異が相次ぎ、内外ともに疲れております。まして聖躬は快復したばかりで、なお静養を要します。どうか将を遣わして征伐させ、車駕を煩わされませぬよう」と答えた。
  • 帝は怒り、ただちに夏原吉を開平の糧儲の管理に出した。吴中が召されて答えた内容も方賔と同じであったので、帝はいっそう怒り、夏原吉を召して内官監に繋ぎ、あわせて大理丞の鄒師言も、かつて戸部を代行したという理由で繋いだ。方賔は懼れて自殺した。
  • そこで夏原吉の家を没収したが、賜わった鈔のほかには布の衣と土器があるだけであった。
  • 翌年、北征したが糧が尽きて引き返し、以後も連年塞外に出たが、いずれも敵に遭わなかった。榆木川まで還ったところで帝は病み、左右を顧みて「夏原吉は朕を愛していた」と言った。
  • 崩御の報が届いて三日、太子は繋がれている所へ駆けつけ、夏原吉を呼んで泣きながら告げた。夏原吉は地に伏して泣き、起き上がれなかった。太子は出獄させて喪礼を議させ、さらに赦詔に何を盛るべきかを問うた。夏原吉は、飢民の賑恤、賦役の削減、西洋への宝船の派遣の中止、および雲南・交阯で採取する諸道の金銀の課税の廃止を挙げ、いずれも従われた。

仁宗・宣宗の朝

  • 仁宗が即位すると官に復した。夏原吉が獄にあった間に母の喪があったので、ここに至って喪を全うするため帰郷を願った。帝は「卿は老臣であり、朕とともに艱難を済うべき者だ。卿に喪があるなら、朕には喪が無いとでもいうのか」と言い、厚く賜わって、家人に喪を護らせ駅伝で急ぎ帰葬させ、有司に喪事を執り行わせた。夏原吉はそれ以上言えなかった。
  • まもなく太子少傅を加えられた。吕震が太子少師として夏原吉の上位に列していたが、帝は鴻臚に命じて吕震をその下に列させた。少保兼太子少傅に進み、尚書は従来どおり、三つの俸禄を給された。夏原吉が固辞したので、太子少傅の禄だけ辞退することを許した。「繩愆糾繆」の銀印を賜わり、両京に邸を建てさせた。
  • 仁宗が崩じ、太子が南京から到着すると、夏原吉は遺詔を奉じて盧溝橋に迎えた。宣宗が即位すると、旧輔として一段と親しみ重んぜられた。
  • 翌年、漢王高煦が叛き、これも靖難を口実として檄を回し罪状を挙げたが、諸大臣のうち夏原吉が筆頭に挙げられていた。帝は夜に諸臣を召して議し、楊榮がまず親征を勧めたが、帝は難色を示した。夏原吉は「李景隆の先例をご覧になりませんでしたか。臣は先日、遣わされた将が命が下ると顔色を変えるのを見ました。事に臨めばどうなるか分かります。しかも兵は神速を貴びます。甲を巻いて急ぎ向かえば、いわゆる先んじて人の心を奪うというものです。楊榮の策がよろしい」と言い、帝の意はここに決した。
  • 軍が還ると賞賜は等を加え、門番三人にも賜わった。夏原吉は功が無いとして辞退したが聴かれなかった。
  • 三年(1428年)、北巡に従った。帝が夏原吉の袋の乾飯を取って嘗め、笑って「なんとまずいものか」と言うと、「軍中にはなお飢えている者がおります」と答えた。帝は大官の御膳を賜わるよう命じ、あわせて将士をねぎらった。
  • 兎兒山での閲武に従ったとき、帝は諸将の緩慢さに怒って衣を剥ぎ取らせた。夏原吉は「将帥は国の爪牙です。どうして凍え死なせてよいものですか」と繰り返し力めて諫めた。帝は「卿のために赦そう」と言った。
  • 再び蹇義とともに銀印を賜わり、その文は「含𢎞貞靖」であった。帝は絵をよくし、かつて自ら壽星圖を画いて賜わった。その他、図画・衣服・食物・器物・銀・幣・玩好の賜わりものは、日として無い日がなかった。
  • 五年(1430年)正月、両朝の実録が成り、また金・幣・鞍馬を賜わった。朝に入って謝し、帰ってそのまま卒した。年六十五。太師を贈られ、諡は忠靖。戸部に敕してその家を世々徭役から除かせた。

度量と人となり

  • 夏原吉には大きな度量があり、人はその底を測ることができなかった。同僚に善いところがあればただちに採り納れ、小さな過ちがあれば必ず庇い隠した。
  • 吏が賜わりものの金糸織の衣を汚したとき、夏原吉は「怖がるな。汚れは洗えばよい」と言った。また精微な文書を汚した者があり、吏が叩頭して死を請うたが、夏原吉は咎めず、自ら入朝して自分の落ち度として詫び、帝は書き改めるよう命じた。
  • 吕震はかつて夏原吉を陥れようとしたが、吕震が子のために官を求めたとき、夏原吉は吕震に靖難のときの守城の功があるとして、その求めを取りなした。平江伯陳瑄も初めは夏原吉を憎んでいたが、夏原吉はつねに陳瑄の才を称えた。
  • ある者が「度量は学んで身につくものですか」と問うと、「私も幼いときは、侵されれば怒らぬことがなかった。初めは顔色に忍び、次に心に忍び、久しくして忍ぶべきものが無くなった」と答えた。
  • かつて夜に判決文を閲し、机を撫でて嘆じ、筆を下ろそうとしてはやめていた。妻が問うと、「これは年末の死刑の上奏だ」と答えた。
  • 同僚と他所で飲んで夜に帰り、雪の中で禁門を過ぎたとき、下馬したくない者がいた。夏原吉は「君子は人の見ていない所でも行いを崩さない」と言った。その慎み深さはこのようであった。

蹇義・夏原吉――両者の位置

  • 夏原吉と蹇義はともに太祖のときに身を起こし、蹇義は人事の権を執り、夏原吉は財政を掌り、いずれも二十七年に及んだ。名も位も三楊に先んじていた。
  • 仁宗・宣宗の世には、外は台省を兼ね、内は館閣に参与し、三楊と心を同じくして政を輔けた。蹇義は謀に長け、楊榮は決断に長けたが、夏原吉と楊士奇はとりわけ大局を保ち、古の大臣の風格があった。
  • 夏原吉の子の瑄は蔭によって尚寳司丞となり、兵を語るのを好み、景泰のときたびたび上章して兵事を言ったが、阻む者があって用いられず、南京太常少卿で終わった。

俞士吉(附)

  • 俞士吉は字を用貞といい、象山の人。建文中に充州訓導となり、上書して時政を論じ、御史に抜擢された。鳯陽・徽州および湖廣に按察に出て、冤獄をよく明らかにして解いた。
  • 成祖が即位すると僉都御史に進んだ。帝は水利の書を持って夏原吉に賜わるよう命じ、そのまま留まって浙西の農政を監督させた。
  • 湖州の未納の糧が六十万石に上ったとき、同僚は数を減らして報告しようとしたが、俞士吉は「君を欺き民を害することは私はしない」と言い、事実どおりに奏したので、ことごとく免除された。
  • まもなく都御史陳瑛に弾劾され、大理少卿袁復とともに獄に繋がれた。袁復は獄中で死に、俞士吉は為事官に謫せられて蘇州・松江の治水に当たり、のち復職して還った。
  • 「聖孝瑞應頌」を奉ったところ、帝は「汝は大臣でありながら民間の利害を言わず、諂いを献ずるのか」と言い、投げ返した。
  • 宣徳の初め、南京刑部侍郎に至って致仕した。

李文郁(附)

  • 李文郁は襄陽の人。永樂の初め、戸部侍郎として夏原吉の副となり治水に功があった。後に事に坐して遼東に謫せられること二十年。仁宗が即位して召還され、南京通政參議となり、致仕した。

鄒師顔(附)

  • 鄒師顔は宜都の人。永樂の初め、江西參政となり、事に坐して免ぜられた。まもなく推薦により御史に抜擢され、直言の名があった。大理丞に遷り、戸部を代行し、夏原吉とともに下獄した。
  • 仁宗が立つと釈されて禮部侍郎となり、墓参のため帰郷し、還る途中、通州で卒した。貧しくて帰葬できず、尚書の吕震が朝廷に上申したので、宣宗は駅の舟でこれを送らせ、京官が卒した場合はみな駅伝を給するよう詔して令とした。

史論

  • 讚に曰く。『書』に「あまねく哲人を求め、汝の後嗣を輔けしめよ」とある。蹇義と夏原吉は、仕官の初めから誠実篤実と実務の力によって太祖に知られ、成祖に至ってはいっそう繁劇の任を託された。二人はまことに政治に通達し、章程に習熟しており、股肱の任にふさわしかった。
  • 仁宗・宣宗が跡を継ぐと委任はいよいよ厚く、徳を同じくし心を合わせて明主を助けた。それによって吏治は明るく整い、民風は和らぎ楽しみ、成績は大いに著れて宗臣となった。人を樹てる効果は遠大なものである。