明史卷一百四十八 例傳第三十六 楊溥

出自と東宮への奉仕

  • 楊溥は字を𢎞濟といい、石首の人。楊榮と同じ年に進士に挙げられ、編修を授かった。
  • 永樂の初め、皇太子に侍して洗馬となった。太子がかつて『漢書』を読み、張釋之を賢と称したとき、楊溥は「釋之はまことに賢ですが、文帝が寛仁でなければその志を行うことはできませんでした」と言い、文帝の事績を採り分類編纂して献じたので、太子は大いに喜んだ。
  • 久しくして喪により帰郷したが、当時、太子が監国していたので起復して職務に就くよう命ぜられた。

十年の投獄と読書

  • 十二年(1414年)、東宮が使者を遣わして帝を迎えたのが遅れ、帝は怒って黄淮を北京に逮え、獄に繋いだ。金問が着くと帝はさらに怒って「金問は何者で太子に侍することができたのか」と言い、法司に下して取り調べさせた。連座して楊溥も逮えられ錦衣衞の獄に繋がれた。
  • 家人の差し入れる食もたびたび絶え、帝の意は測りがたく、朝夕にも死ぬかという有り様であったが、楊溥はいよいよ奮起して読書をやめなかった。繋がれること十年、経史と諸子を数回通読した。
  • 仁宗が即位すると釈されて出獄し、翰林學士に抜擢された。かつて密かに上疏して事を言うと、帝は褒めて答え、鈔と幣を賜わった。ついで、楊溥が自分のために長く苦しんだことを思い、とりわけ憐れんだ。

𢎞文閣

  • 翌年、思善門の左に𢎞文閣を建て、諸臣のうち学行のある者を選んで侍値させた。楊士竒は侍講の王進と儒士の陳繼を薦め、蹇義は學録の楊敬と訓導の何澄を薦めた。詔して陳繼を博士、楊敬を編修、何澄を給事中とし、日々閣中に値せしめた。
  • 楊溥に閣の事を掌らせ、自ら閣の印を授けて「朕が卿を左右に用いるのは学問のためだけではない。広く民の事を知って治道の助けとしたいのだ。建言があれば封をして進めよ」と言った。まもなく太常卿に進み、兼職は従来どおり。
  • 宣宗が即位すると𢎞文閣は廃され、楊溥は召されて内閣に入り、楊士竒らとともに機務を掌った。四年いて母の喪により去り、起復して九年(1434年)に禮部尚書に遷り、学士として内閣に値するのは従来どおり。

太皇太后の託

  • 英宗が立ったばかりのころ、楊士竒・楊榮とともに経筵を開くことを請い、あらかじめ講官を選ぶには必ず学識が公平正当で言行が謹厳、老成で大局に通じた者を数人得て職に当たらせるべきだとし、あわせて宮中で朝夕に侍従する内臣を慎重に選ぶよう請うた。太后は大いに喜んだ。
  • ある日、太后が便殿に坐し、帝は西に向かって立ち、英國公張輔および楊士竒・楊榮・楊溥、尚書胡濙を召し入れて「卿らは老臣である。嗣君は幼い。どうか心を同じくしてともに社稷を安んじてほしい」と論じた。
  • また楊溥を前に召して「仁宗皇帝は卿の忠を思い、たびたび嘆息しておられた。今なお卿に会えようとは思わなかった」と言った。楊溥は感泣し、太后も涙し、左右もみな悲しんだ。
  • そもそも仁宗が太子であったとき讒言を受け、宮僚の多くが詔獄で死んだ。楊溥と黄淮はひとたび繋がれて十年、死に瀕したことも数度あった。仁宗は宮中でつねに諸臣を思い、太后も久しく憐れんでいたので、楊溥にこのように言ったのである。
  • 太后はさらに帝を顧みて「この五人の臣は三朝が選び任じた者で、後継の者を輔けさせるためである。皇帝は万機をこの五人と協議されよ」と言った。
  • 正統三年(1438年)、『宣宗實録』が成り、少保・武英殿大學士に進んだ。楊溥は楊士竒・楊榮より二十余年遅れて入閣したが、ここに至って二人と並んだ。六年(1441年)、墓参のため帰郷し、まもなく還った。

三楊の称と晩年

  • このころ王振はまだ横暴でなく、天下は清平で朝廷に失政が無く、中外の臣民はこぞって「三楊」と称した。邸宅の位置から楊士竒を西楊、楊榮を東楊と呼び、楊溥は自ら郡望を署して「南郡」と称したので南楊と号した。
  • 楊溥は質実で真っすぐ、廉潔で静か、腹に含むところが無く、性は恭謹で、入朝のたびに塀に沿って歩いた。諸大臣が事を論じて可否を争い、言い争いになることがあっても、楊溥は平らかな心で処理したので、諸大臣はみな感服した。当時、楊士竒は学行があり、楊榮は才識があり、楊溥は雅やかな操を持ち、いずれも人の及ばぬところであると言われた。
  • 楊榮・楊士竒があいついで卒すると、閣にいるのは馬愉・高穀・曹鼐で、いずれも後進で人望が軽く、楊溥は孤立し、王振はいよいよ事を専らにした。
  • 十一年(1446年)七月、楊溥が卒す。年七十五。太師を贈られ、諡は文定。孫の壽を尚寳司丞に任じた。
  • その三年後、王振はついに英宗を導いて北征させ、土木で陥って大乱に近い事態となった。当時の人は、この三人がいたならばここまでにはならなかったろうと追慕した。ところが後から出てきた者は争ってその短所を暴き立て、中旨に曖昧に従って賊たる宦官の禍を醸したのだと言うが、これもまた過度に苛酷な言い分である。

馬愉(附)

  • 馬愉は字を性和といい、臨朐の人。宣徳二年(1427年)の進士第一で、翰林修撰を授かった。九年(1434年)秋、史官および庶吉士三十七人を特に選んで文淵閣で学問を進めさせたが、馬愉がその首席であった。
  • 正統元年(1436年)、経筵の講官に充てられ、二度遷って侍講學士に至った。
  • 当時、王振が事を専らにしていた。ある日、楊士竒・楊榮に「朝廷の事で長らく公らを労してきた。公らはみな高齢でお疲れであろう」と言った。楊士竒は「老臣は力を尽くして国に報い、死してのちやむのみです」と言い、楊榮は「われらは衰えて力を尽くしようもない。後進で任に堪える者を選んで聖恩に報いるべきでしょう」と言った。王振は喜んで退いた。
  • 楊士竒が楊榮の失言を咎めると、楊榮は「彼はわれらを厭うている。ある朝、宮中から紙切れ一枚が出て某を入閣させよと命じたらどうする。今のうちに一人二人の賢者を進め、心を合わせて協力すればまだ何とかなる」と言い、楊士竒も然りとした。翌日、侍讀學士苗衷、侍講曹鼐および馬愉の名を列ねて進め、これによって馬愉は抜擢された。
  • 五年(1440年)、詔して本官のまま内閣に入り機務に参与させ、まもなく禮部右侍郎に進んだ。十二年(1447年)に卒し、尚書兼學士を贈られた。官を贈って職を兼ねさせるのは馬愉に始まる。
  • 馬愉は端正重厚で寡黙、私的な請託を受けず、事を論ずるには寛厚を旨とした。かつて「天下の獄で長引いた者に牢死が多い。使者を選んで道を分けて裁決させるべきです」と奏し、帝は容れた。
  • 辺境の急報があって将を任じたところ、別の部の使者が至り、衆議はこれを捕らえようとした。馬愉は「善に賞し悪を罰するのが治の本です。善良な者にまで累を及ぼすのは法ではありませんし、人が来たのに乗じて捕らえるのは武ではありません」と言い、帝は然りとしてその使者を厚く送り返した。

史論

  • 贊に曰く。成祖のとき、楊士竒と楊榮は解縉らとともに内閣に直し、楊溥もまた同じく仁宗の宮僚であった。三人は四朝に仕え、当代の長老碩儒であった。楊溥の入閣は遅かったが、徳望は二人に次いだ。それゆえ明で賢相を称するときは必ず三楊を筆頭とする。
  • いずれも儒術に本づき、事の機微に通達し、力を合わせて助け合い、恭しく職に励んで怠らなかった。史は房玄齢・杜如晦について、衆人の美点をまとめて君に効し、輔佐して欠を補いながらもその手腕を表に出さなかったと称し、また姚崇は変に応じて天下の務めを成すに巧みであり、宋璟は成文の法を守って天下の正を保つに巧みであったと称する。三楊はそれに近いというべきであろう。