出自と成祖への進言
- 楊榮は字を勉仁といい、建安の人。初めの名は子榮。建文二年(1400年)の進士で、編修を授かった。
- 成祖が初めて京に入ったとき、楊榮は馬前に迎えて謁し、「殿下はまず陵に謁されますか、まず即位されますか」と言った。成祖はただちに車駕を促して陵に謁し、これより知遇を得た。
- 即位すると選ばれて文淵閣に入り、榮と改名させられた。同じく直した七人のうち楊榮が最も若く、機敏であった。
事の先を読む
- ある日の夕方、寧夏が包囲されたと報せがあった。七人を召したがみなすでに退出しており、楊榮だけがいた。帝が奏状を示すと、楊榮は「寧夏は城が堅く、人はみな戦に慣れております。奏が上ってすでに十余日、囲みは解けているでしょう」と言った。夜半、果たして囲みが解けたと奏があり、帝は「なんと的確に見通したことか」と言った。
- 江西で盗賊が起こり、使者を遣わして撫諭させ、都督韓觀に兵を率いて後に続かせた。賊が招撫に応じたと奏が届き、帝は敕を賜わって韓觀をねぎらおうとした。楊榮は「奏が発せられたときを計れば韓觀はまだ着いていません。功を論ずることはできません」と言い、帝はいっそう重んじた。
- 二度遷って侍講に至り、太子が立つと右諭徳に進み、なお前職を兼ね、直に当たる諸臣とともに二品の服を賜わった。諸司の事宜を評議して意に適い、また衣と幣を賜わった。
- 帝は威厳があり、諸大臣と事を議して決しないと怒りを発することもあったが、楊榮が来ればそのつど顔色は和らぎ、事も決した。
甘肅・寧夏の経略
- 五年(1407年)、甘肅に赴いて軍務を経略するよう命ぜられた。通過した先で山川の形勢を見、軍民を視察し、城堡を検分した。還って武英殿で奏すると帝は大いに喜び、盛暑であったので自ら瓜を割いて食べさせた。まもなく右庶子に進み、兼職は従来どおり。
- 翌年、父の喪により駅伝を給されて帰り、葬った後に起復して職務に就いた。さらに翌年、母の喪により帰郷を願ったが、帝は北行の期が迫っているとして許さず、胡廣・金幼孜とともに扈従を命じた。
- 甘肅總兵官の何福が、托克托布哈らが降伏を請い、額齊納で命を待っていると言った。楊榮に馳せ向かって何福とともに降を受けるよう命じ、節を持して軍中で何福を寧遠侯に封じた。ついで寧夏に至り、寧陽侯陳懋とともに辺務を計画し、還って便宜十事を陳べ、帝は嘉して容れた。
- 八年(1410年)、塞外に出るのに従い、臚朐河に宿ったとき、勇士三百人を選んで護衞とし、諸将に属させず楊榮に領させた。軍が旋回するとき糧が続かなくなり、楊榮は御用の余りをすべて軍に給し、軍中で余裕のある者は互いに貸し、塞に入れば官が倍にして償うようにと請い、軍はこれによって救われた。
- 翌年、喪に奔ることを願い出て、中官に護送を命ぜられた。還ると閩中の民情および年の豊凶を尋ねられ、楊榮はことごとく答えた。まもなく文華殿で諸皇孫の読書に侍するよう命ぜられた。
- 十年(1412年)、甘肅の守臣宋琥が「叛徒の婁達哈が赤斤蒙古衞に逃れ、辺境の患いとなろう」と言ったので、また楊榮を陝西に遣わし、豐城侯李彬と会して進兵の方略を議させた。楊榮は還って「厳冬は用兵の時ではなく、しかも罪ある者はわずか数人。兵を出すべきではありません」と奏し、帝は従った。叛いた者も降った。
北征への扈従
- 翌年、また胡廣・金幼孜とともに北巡に従った。さらに翌年、衞拉特を征したとき皇太孫が同行し、帝は楊榮に折を見て経史を説かせ、あわせて尚寳の事を領させた。詔勅の宣布・命令の発布および旗印・符験は、すべて楊榮の奏を経てから発せられた。
- 帝はかつて夕方に行幄に坐して楊榮を召し、兵と食を計った。楊榮は「将を選んで屯田し、訓練に方があり耕作に時があれば、兵も食も足ります」と答えた。
- 十四年(1416年)、金幼孜とともに翰林學士に進み、なお庶子を兼ねた。従って京師に還り、翌年また北征に従った。
- 十六年(1418年)、胡廣が卒すると楊榮に翰林院の事を掌らせ、いよいよ親任された。諸大臣の多くは楊榮を忌み、遠ざけようとして揃って祭酒に推挙した。帝は「朕はもとよりその適任なるを知っている。ただし楊榮の代わりになる者を求めてからだ」と言い、諸大臣はそれ以上言えなかった。
- 十八年(1420年)、文淵閣大學士に進み、学士を兼ねるのは従来どおり。
- 翌年、北京に都を定めたところ三殿が火災に遭った。楊榮は衞士を指揮して図籍と制誥を運び出し、東華門の外に担ぎ出させ、帝は褒めた。楊榮は金幼孜とともに便宜十事を陳べ、可の返答を得た。
- 二十年(1422年)、また塞外に出るのに従い、軍事はすべて参画・裁決させられ、賜わりものは手厚かった。軍が還ると将士をねぎらい四等に分けて宴を賜わったが、楊榮と金幼孜はいずれも前席に列して上等の賞を受けた。
- のち詔を下して阿嚕台を征することとなり、ある者が建文のときに江西で集めた民兵を動員するよう請うた。帝が楊榮に問うと、楊榮は「陛下が民に生業への復帰をお許しになって二十年になろうとしております。一朝にしてまた徴発なさるのは、天下に信を示す所以ではありません」と言い、帝は従った。
- 翌年、塞外に出るのに従い、軍務はすべて楊榮に委ねられ、昼夜を問わず引見された。帝はそのころ「楊学士」と呼んで名を呼ばなかった。
- さらに翌年、また北征に従った。
成祖の崩御と秘喪
- このとき帝は五度も塞外に出ており、士卒は飢え凍え、糧の輸送が続かず、死亡した者は十のうち二、三に及んだ。大軍が達蘭納穆爾河に至っても敵は見えなかった。帝が群臣に「なお進むべきか」と問うと、群臣は唯々として答えず、楊榮と金幼孜だけが落ち着いて班師すべきだと言い、帝は許した。
- 還って榆木川に宿ったとき帝が崩じた。中官の馬雲らはどうしてよいか分からず、密かに楊榮・金幼孜とともに御幄に入って議した。二人は、六師は外にあって京師まで遠いとして、喪を秘して発せず、礼をもって斂め、錫を鎔かして内棺を作って輿に載せ、着いた先では朝夕の膳を平常どおり進め、軍令をいっそう厳しくしたので、誰も察知しなかった。
- ある者が「他の事にかこつけて敕を作り、皇太子に馳せ報せてはどうか」と言ったが、二人は「誰がそのようなことをするか。先帝がおられればこそ敕と称せる。崩御された後に敕と称するのは詐りである。罪は小さくない」と言い、衆も然りとした。そこで崩御の年月日と、遺命により位を伝える意を書き記して太子に啓した。楊榮と少監海壽が先に馳せて訃を報じた。
- 到着すると、太子は蹇義・楊士竒とともに行うべき事どもを議するよう命じた。
仁宗・宣宗の朝
- 仁宗が即位すると太常卿に進み、その他の官は従来どおり。まもなく太子少傅・謹身殿大學士に進んだ。
- のちに、楊榮が大行の喪礼に当たった際の処置と軍事の処理の様子を言う者があり、帝はそのとき行っていた敕を賜わってねぎらい、賜わりものはきわめて厚く、工部尚書に進めて三つの俸禄を給した。当時、楊士竒と黄淮はいずれも尚書の禄を辞退し、楊榮と金幼孜も固辞したが許されなかった。
- 宣徳元年(1426年)、漢王高煦が叛くと、帝は楊榮らを召して計を定めた。楊榮は真っ先に親征を請い、「彼は陛下が新たに立たれたので自ら出られまいと思っております。今、不意を突いて天威をもって臨めば、事は成らぬことがありません」と言い、帝はその計に従った。樂安に至ると高煦は出て降った。軍が還ると、策を決した功により上等の賞を受け、銀印五つを賜わるなど褒賞はきわめて手厚かった。
- 三年(1428年)、帝の巡辺に従って遵化に至ったとき、烏梁海が辺を侵そうとしていると聞いた。帝は扈従の文臣を大営に留め、楊榮だけに従わせ、自ら軽騎を率いて喜峯口に出て敵を破って還った。
- 五年(1430年)、少傅に進み、大學士の禄を辞退した。九年(1434年)、また巡辺に従い、洗馬林まで行って還った。
- 英宗が即位しても委任は従来どおり。正統三年(1438年)、楊士竒とともに少師に進んだ。五年(1440年)、墓参のため帰郷を願い、中官に護送を命ぜられたが、還る途中、武林驛で卒した。年七十。太師を贈られ、諡は文敏。世襲の都指揮使を授けられた。
事績の評と人となり
- 楊榮は四朝に仕え、謀を立てるとともに決断ができた。永樂の末、浙・閩の山賊が起こり、出兵の議が出た。帝はそのとき塞外におり、奏が届くと楊榮に示した。楊榮は「愚かな民が有司に苦しめられ、やむを得ず集まって自衛しているのです。兵を出せばいっそう集まって収拾がつかなくなります。使者を遣わして招撫すれば兵を煩わすには及びません」と言い、帝は従い、盗賊は果たして鎮まった。
- 安南の放棄については、諸大臣の多くが不可としたが、楊榮と楊士竒だけが「辺遠の地のために中国を疲弊させるべきではない」と力説した。その老成・持重ぶりはおおむねこのようであった。
- 事を論ずるときは激しく、人の過ちを容れることができなかった。しかし人が帝の怒りに触れて不測の事態に陥りそうになると、しばしば遠回しの言葉で帝の意を導き、そのつど解くことができた。夏原吉・李時勉が死なずに済んだのも、都御史劉觀が軽い刑で済んだのも、みなその力による。
- かつて人に「君に仕えるには体があり、諫めるには方法がある。真っすぐを衒って禍を招くようなことは、私はしない」と語った。それゆえ、その恩遇も終始変わることが無かった。
- 『太祖實録』の重修および太宗・仁宗・宣宗の三朝実録には、いずれも総裁官を務めた。前後の賜わりものは数え切れない。
- 性は賓客を好み、貴顕になっても少しも高ぶるところが無く、士人の多くが心を寄せた。ある者は、楊榮が国家の大事を処理する手腕は唐の姚崇に恥じないが、小節に拘らないところもまたよく似ていると言った。
楊旦(附)
- 楊榮の家は富み、曾孫の業は建安の指揮となったが、財によって身を滅ぼした。その詳細は宦官傳にある。
- 業の従弟の旦は字を晉叔といい、𢎞治中の進士。太常卿を歴任したが、劉瑾に忤らって温州知府に左遷され、治績が第一であった。やや遷って浙江提學副使となり、劉瑾が誅されると累進して戸部侍郎に至り、京倉・通倉を監督し、甘肅に出て糧餉を処理した。
- 還って右都御史に進み、兩廣の軍務を総督し、番禺・清逺・河源の諸猺を討ち平らげた。
- 嘉靖の初め、遷って南京吏部尚書に至った。張璁・桂萼が急速に昇進したとき、旦は九卿を率いて不可であると極言した。ちょうど吏部尚書の喬宇が罷免されたので、旦を召してその後任にしようとしたが、着任しないうちに給事中の陳洸に弾劾され、致仕を強いられた。年七十余で卒した。