明史卷一百四十八 例傳第三十六 楊士竒

出自と入朝

  • 楊士竒は名を寓といい字をもって通った。泰和の人。早くに父を失い、母に従って羅氏に嫁いだ家に入り、のち本姓に復した。家はきわめて貧しく、力めて学び、徒に教えて自活し、多く湖湘の間に遊び、江夏に館したのが最も長かった。
  • 建文の初め、諸儒を集めて『太祖實録』を修めたとき、楊士竒はすでに推薦により徴されて教授を授けられ赴任するところであったが、王叔英がさらに史才として薦めたので、翰林に召し入れられて編纂官に充てられた。
  • まもなく吏部に史館の諸儒の序列をつけさせたところ、尚書の張紞が楊士竒の策文を得て「これは経生の言ではない」と言い、第一と奏した。吳王府審理副を授けられ、なお館職を務めた。
  • 成祖が即位すると編修に改まり、のち選ばれて内閣に入り機務を掌り、数か月で侍讀に進んだ。
  • 永樂二年(1404年)、宮僚を選ぶにあたり楊士竒を左中允とし、五年(1407年)に左諭徳に進めた。

慎み深さと徐竒の贈物

  • 楊士竒は職務にきわめて慎重で、私邸では公事を口にせず、たとえ親密な相手でも聞かせなかった。帝の前では立ち居振る舞いが恭しく慎み深く、応対に長け、事を言えばつねに的を射た。人に小さな過ちがあれば、しばしば庇い隠した。
  • 廣東布政使の徐竒が嶺南の土産を積んで廷臣に贈ったとき、ある者がその贈答名簿を手に入れて奉った。帝が閲すると楊士竒の名が無いので、召して問うた。楊士竒は「徐竒が廣東に赴くとき群臣が詩文を作って送別しましたが、臣はたまたま病で加われず、それゆえひとり名がありません。今回受け取ったかどうかは分かりませんし、品も些細なもので、他意は無いでしょう」と答えた。帝はただちに名簿を焼かせた。

東宮の輔佐と漢王の讒言

  • 六年(1408年)、帝が北巡するとき、蹇義・黄淮とともに留まって太子を輔けるよう命ぜられた。太子は文辞を好み、贊善の王汝玉が詩法を進めたが、楊士竒は「殿下は六経に意を留められ、暇があれば両漢の詔令をご覧になるべきです。詩は小技であって、なさるほどのものではありません」と言った。太子は善しとした。
  • そもそも帝が挙兵したとき漢王がたびたび力戦して功があったので、帝は事が成れば太子に立てると約束していた。ところが立てられなかったので怨みを抱いた。帝はまた趙王の年少なのを憐れんで格別に寵愛した。こうして両王が結んで太子を間したので、帝の心もかなり動いた。
  • 九年(1411年)、南京に還ると楊士竒を召して監国の様子を問うた。楊士竒は孝敬であると答え、「殿下は天資が高く、過ちがあれば必ず気づき、気づけば必ず改められます。心に人を愛することを存し、決して陛下のご委託に背きません」と言い、帝は喜んだ。
  • 十一年(1413年)の元旦に日食があった。禮部尚書の吕震は朝賀を取りやめるべきでないと請い、侍郎の儀智は不可であるとした。楊士竒も宋の仁宗の故事を引いて強く言い、ついに賀を取りやめた。

東宮官の投獄と漢王の失脚

  • 翌年、帝が北征すると、楊士竒はなお太子を輔けて留守した。漢王の太子への讒言はますます激しくなった。
  • 帝が還ると、迎駕が遅れたことを咎めて東宮の官をことごとく徴し、黄淮らを下獄させた。楊士竒は後から到着したので赦された。召されて太子の事を問われると、楊士竒は頓首して「太子の孝敬は以前のとおりです。滞りはすべて臣らの罪であります」と言い、帝の心は解けた。行在の諸臣は連名で「楊士竒だけを赦すべきでない」と弾劾したので、錦衣衞の獄に下されたが、まもなく釈された。
  • 十四年(1416年)、帝が京師に還り、漢王が嫡を奪おうと謀り種々の不軌をなしていると耳にした。蹇義に問うたが答えなかったので、楊士竒に問うた。楊士竒は「臣と蹇義はともに東宮に侍しておりますので、外の者は臣ら二人に漢王の事を言おうとしません。ただ、漢王は二度も藩に就くよう遣わされながらいずれも行こうとせず、今また陛下が遷都なさろうとしていると知って、南京に留守したいと請うております。どうかその意をお確かめください」と答えた。帝は黙って立ち上がり宮に還った。
  • 数日して帝は漢王の事をすべて把握し、二つの護衞を削って樂安に置いた。
  • 翌年、楊士竒は翰林學士に進み、旧官を兼ねた。十九年(1421年)、左春坊大學士に改まり、なお学士を兼ねた。翌年、輔導に手落ちがあったことに坐して、また錦衣衞の獄に下されたが、十日で釈された。

仁宗の即位と諫言

  • 仁宗が即位すると禮部侍郎兼華葢殿大學士に抜擢された。
  • 帝が便殿に出御し、蹇義・夏原吉が上奏してまだ退かぬうちに、帝は楊士竒を見かけて二人に「新任の華葢学士が来た。必ず直言があろう。ともに聴こうではないか」と言った。楊士竒は入って「歳供を減ずる恩詔が下ってわずか二日で、惜薪司が旨を伝えて棗八十万斤を徴しております。先の詔と食い違います」と言い、帝はただちにその半分を減らすよう命じた。
  • 服喪二十七日の期が満ちたとき、吕震は吉服に改めるよう請うたが、楊士竒は不可とし、吕震は声を荒げて叱った。蹇義は両説を併せて進めた。翌日、帝は素冠・麻衣・絰の姿で朝に臨み、廷臣で同じ服をしたのは楊士竒と英國公張輔だけであった。朝が終わると帝は左右に「梓宮がまだ殯にあるのに服を改めるなど、臣子として口にできることか。楊士竒が固執したのは正しい」と言った。
  • 少保に進み、同僚の楊榮・金幼孜とともに「繩愆糾繆」の銀印を賜わり、密封して事を言うことができるようになった。まもなく少傅に進んだ。

馬の飼育をめぐる進言

  • 当時、地方の布政使や郡守県令が来朝したとき、尚書の李慶が「軍伍の余った馬を出して有司に与え、毎年その子馬を課すべきだ」と建議した。楊士竒は「朝廷は賢を選んで官を授けたのに、馬を飼わせるとは、家畜を貴んで士を賤しむことです。何をもって天下後世に示しましょうか」と言った。帝は中旨をもって取り止めることを承諾したが、その後は音沙汰が無かった。楊士竒が改めて力説したが、また返答が無かった。
  • しばらくして帝は思善門に出御し、楊士竒を召して「朕がまことに忘れていたと思うか。吕震・李慶らがみな卿を好んでおらぬと聞いた。卿が孤立していることを思うと、彼らに傷つけられるのを恐れ、卿の言によって取り止めた形にしたくなかっただけだ。今、口実ができた」と言い、陝西按察使の陳知が馬の飼育は不便であると言った疏を手ずから出して、それに基づいて敕を草して施行させた。楊士竒は頓首して謝した。
  • 群臣が元旦の朝儀を習うとき、吕震が楽を用いるよう請うたので、楊士竒は黄淮とともに止めるよう上疏したが返答が無かった。楊士竒が再び奏して庭中で待つこと夜の漏刻十刻に及び、ようやく可の返答があった。翌日、帝は召して「吕震は事ごとに朕を誤らせる。卿らの言が無ければ悔いても及ばぬところであった」と言い、兵部尚書を兼ねさせ三つの俸禄を併せ給した。楊士竒は尚書の禄を辞退した。

寛刑と直言の保護

  • 帝が監国であったころ、御史の舒仲成に恨みがあり、このとき罪に問おうとした。楊士竒は「陛下の即位の詔で、かつて旨に忤らった者はみな赦されると仰せられました。もし仲成を処罰すれば詔書が信を失い、懼れる者が多くなりましょう。漢の景帝が衞綰を待遇したようになさってはいかがでしょう」と言い、帝はただちに取り止めて罪に問わなかった。
  • ある者が大理卿の虞謙は言事に慎重さを欠くと言い、帝が怒って一階降したが、楊士竒がその濡れ衣を晴らして旧官に復した。
  • また大理少卿の弋謙が言事によって罪を得たとき、楊士竒は「弋謙は詔に応えて意見を述べたのです。もし罪を加えれば、群臣はこれより舌を結ぶでしょう」と言った。帝はただちに弋謙を副都御史に進め、敕を下して自らの過ちを認めた。
  • 当時、上書して朝廷の公平を頌える者があり、帝がそれを諸大臣に示すとみな然りとしたが、楊士竒ひとりが「陛下の恩沢は天下に及んでおりますが、流亡した民はまだ帰らず、傷はまだ癒えず、民はなお食に苦しんでおります。さらに数年休息させてこそ、太平を期することができましょう」と言った。帝は「そのとおりだ」と言い、蹇義らを顧みて「朕は卿らを至誠で待遇し、匡弼を望んでいる。ところが上章したのは楊士竒が五度だけで、卿らはみな一言も無い。まことに朝廷に欠けた政も無く天下は太平なのか」と言い、諸臣は恥じ入って謝した。
  • その年四月、帝は楊士竒に璽書を賜わって、次のように言った。「かつて朕が監国の命を受けたとき、卿は左右に侍し、心を同じくし徳を合わせ、国のために身を捨て、たびたび艱難を経ても志を変えなかった。朕が位を嗣いでからは、よき謀を告げて治を助けようとし、堅固で二心が無いことは朕の心に銘記されている。ここに『楊貞一』の印を創り制して卿に賜わる。なおよく互いに修めて明君良臣の誉れを成すように」。
  • まもなく『太宗實録』を修め、黄淮・金幼孜・楊溥とともに総裁官に充てられた。
  • ほどなく帝が病み、楊士竒と蹇義・黄淮・楊榮を思善門に召し、楊士竒に敕を書かせて南京の太子を召した。

趙王の擁護

  • 宣宗が即位すると『仁宗實録』を修め、なお総裁に充てられた。
  • 宣徳元年(1426年)、漢王高煦が叛き、帝は親征してこれを平らげた。軍が還って獻縣の單家橋に宿ったとき、侍郎の陳山が出迎えて「漢王と趙王はまことに心を同じくしております。この勢いに乗じて彰徳を襲い趙王を捕らえるべきです」と言い、楊榮が強く賛成し、そこで旨を伝えて楊士竒に趙王を詰問する詔を草させようとした。
  • 楊士竒は「事には証拠がなければなりません。天地鬼神を欺けましょうか」と言った。楊榮が声を荒げて「汝は大計を妨げようというのか」と言うと、楊士竒は「太宗皇帝には三人の子がおられ、今上には叔父が二人しかおられません。罪ある者は赦せませんが、罪の無い者は厚く待遇すべきです。疑わしければ備えて憂いが無いようにすればよいだけで、なぜにわかに兵を加えて皇祖の天に在す御心を傷つけるのですか」と言った。
  • このとき楊溥だけが楊士竒と意見を同じくし、ともに入って諫めようとしたが、楊榮が先に入り、二人が続いても門番が通さなかった。まもなく蹇義と夏原吉が召し入れられ、二人が楊士竒の言を帝に伝えた。帝はもともと趙王を罪する意が無かったので、出兵の話は取りやめとなった。
  • 京に還ってから、帝は楊士竒の言を思い起こし、「今、議する者の多くが趙王の事を言うが、どうしたものか」と言った。楊士竒は「趙王は最も近い親族です。陛下は保全なさるべきで、群言に惑わされてはなりません」と答えた。帝が「群臣の上章を封じて王に示し、自ら身の処し方を決めさせようと思うがどうか」と言うと、楊士竒は「よろしゅうございます。さらに璽書を一通添えられれば幸いです」と言った。
  • そこで使者を発して書を趙に届けると、趙王は書を得て大いに喜び、泣いて「わしは生きられる」と言い、ただちに表を上って謝し、あわせて護衞を献じたので、言う者もようやく止んだ。
  • 帝は趙王への待遇をいよいよ親しくし、陳山を疎んじ、楊士竒に「趙王が全うできたのは卿の力だ」と言って金と幣を賜わった。

交阯の放棄

  • 当時、交阯はたびたび叛き、大軍をしばしば発して征討したがみな敗れて損耗した。交阯の黎利が人を遣わして偽って陳氏の後を立てることを請い、帝も戦に飽きて許そうとした。英國公張輔・尚書蹇義以下はみな「与えるのは名分が無く、いたずらに天下に弱さを示すことになる」と言った。
  • 帝は楊士竒と楊榮を召して謀った。二人は「陛下が民の命を惜しんで辺境を安んじられるのは名分が無いわけではありません。漢が珠厓を棄てたことは前史が美談としております。弱さを示すことにはなりません。許されるのがよろしい」と力説した。
  • まもなく交阯へ遣わす使者を選ぶことになり、蹇義は伏伯安の弁舌を薦めた。楊士竒は「言に忠信が無ければ、たとえ蛮貊の邦であっても行われません。伯安は小人ですから、行けば国を辱めましょう」と言い、帝は然りとして別の使者を遣わした。
  • こうして交阯を棄てて兵を罷め、毎年の軍費を巨万も節約できた。

宣宗の信任

  • 五年(1430年)春、帝は皇太后を奉じて陵に謁し、英國公張輔・尚書蹇義および楊士竒・楊榮・金幼孜・楊溥を召して行殿で太后に朝させ、太后は労をねぎらった。
  • 帝はまた楊士竒に「太后は朕にこう仰せられた。先帝が東宮におられたころ、卿だけが忤らうことを憚らず、先帝はよくそれに従って事を過たれなかった、と。さらに朕にも直言を受け入れるようお諭しになった」と語った。楊士竒は「これは皇太后の盛徳のお言葉です。どうか陛下がお心に留められますよう」と答えた。
  • まもなく鴻臚寺に敕して、楊士竒は老いて病があるので参朝に遅れることがあっても奏上して咎めぬこととした。
  • 帝はかつて微行して夜に楊士竒の邸を訪れた。楊士竒はあわてて出迎え、頓首して「陛下、なにゆえ社稷宗廟のお身をかくも軽んじられるのですか」と言った。帝は「朕は卿と一言語りたくて来ただけだ」と言った。数日後、異謀を抱く盗賊二人が捕らえられ、帝は楊士竒を召してその次第を告げ、「これで卿が朕を愛していることが分かった」と言った。

恤民の詔

  • 帝は各地でたびたび水害・旱害が起きたので、楊士竒を召して議し、詔を下して寛大な救恤を行い、被災地の租税および官馬の頭数不足を免じた。楊士竒はそれに乗じて、滞納の賦税・薪芻銭も併せて免除し、官田の税額を減らし、冤罪の滞留を裁き、工役を削って恩徳を広めるよう請うたので、民は大いに喜んだ。
  • 二年余りして帝が「恤民の詔を下してから久しい。今なお恤むべきものがあるか」と問うと、楊士竒は「先の詔で官田の租を減じましたが、戸部は従来どおり行っております」と言った。帝は不快な顔で「今すぐこれを行え。握り潰した者は法どおり処断する」と言った。
  • 楊士竒はさらに、逃散した民を撫し、貪吏を摘発し、文学・武勇の士を挙げ、極刑に処せられた者の家の子孫にも仕官の道を開くよう請うた。また廷臣の三品以上および二司の官に各々知る者を挙げさせ、地方長官・郡守の選任に備えるよう請い、いずれも許された。

三楊の内閣

  • このとき帝は精励して治を図り、楊士竒らが心を合わせて輔佐したので、海内は治平と称された。
  • 帝はそこで古の君臣が遊を共にした故事にならい、毎年の初めに百官に十日の休みを与え、車駕もときに西苑・萬歳山に行幸し、諸学士はみな従って詩を賦し唱和した。くつろいだ場で民間の疾苦を問い、論奏があれば帝はみな虚心に聴き納れた。
  • 帝が即位したころ内閣の臣は七人であったが、陳山・張瑛は東宮時代の旧恩で入ったものの職に堪えず他官に出され、黄淮は病で致仕し、金幼孜は卒したので、閣中は楊士竒・楊榮・楊溥の三人だけになった。
  • 楊榮は闊達果毅で事に当たって思い切りがよく、たびたび成祖の北征に従って辺将の賢愚、要害の険易遠近、敵情の順逆を知悉していた。しかし贈答をかなり受け、辺将が年ごとに良馬を贈っていた。帝はそのことをかなり知っていて楊士竒に問うた。楊士竒は「楊榮は辺務に通暁しており臣らの及ぶところではありません。小さな過ちを気になさるべきではありません」と力説した。帝は笑って「楊榮はかつて卿と夏原吉の短を言った。それなのに卿は彼のために弁ずるのか」と言い、楊士竒は「どうか陛下、臣を寛くお容れになるように楊榮もお容れください」と言い、帝の意は解けた。
  • その後この話がしだいに伝わり、楊榮はこれを恥じて、楊士竒と仲むつまじくなった。帝もいっそう二人を親しみ厚遇し、前後に賜わった珍果・供物・金糸織の衣・幣・書物・器物は数え切れなかった。

正統初年の政

  • 宣宗が崩じ、英宗が即位したときはわずか九歳であった。軍国の大政は太皇太后に諮られ、太皇太后は心を推して楊士竒に任せた。楊士竒・楊榮・楊溥の三人は、事があれば中使を閣に遣わして諮問させたうえで裁決した。三人もまた自ら信ずるところを堂々と行った。
  • 楊士竒はまず士卒を練り辺防を厳しくし、南京に参贊機務の大臣を置き、文武の官を分け遣わして江西・湖廣・河南・山東を鎮撫させ、偵事の校尉を廃するよう請うた。また順次に租税を免じ、刑獄を慎み、百司を厳しく査覈するよう請い、いずれも許されて行われた。正統の初めに朝政が清明であったのは、楊士竒らの力である。
  • 三年(1438年)、『宣宗實録』が成り、少師に進んだ。四年(1439年)、致仕を願ったが許されず、敕して墓参のため帰郷させ、まもなく還った。

王振の専横と晩年

  • このころ中官の王振が帝に寵せられ、しだいに外廷の事に関与し、帝を厳しく下を御する方へ導いたので、大臣がしばしば下獄した。
  • 靖江王佐敬が私かに楊榮に金を贈ったが、楊榮は先に墓参のため帰っていて知らなかった。王振はこれを口実に楊榮を倒そうとしたが、楊士竒が力を尽くして弁解し、事無きを得た。楊榮はまもなく卒し、楊士竒と楊溥はいっそう孤立した。
  • その翌年、ついに大軍を興して麓川を征し、国庫を消耗し、死んだ兵馬は数万に及んだ。さらに翌年、太皇太后が崩じ、王振の勢いはますます盛んになった。大いに威福をほしいままにし、百官が少しでも逆らうとすぐに捕らえて繋いだので、廷臣は誰も彼も怯え、楊士竒にも抑えることができなかった。
  • 楊士竒は老いていた。子の稷は傲慢で凶暴、人を侵し暴して殺したことがあり、言官が連名で稷を弾劾した。朝議はすぐには法を適用せず、その告発状を封じて楊士竒に示した。さらに稷の横暴・虐待数十件を告発する者が出て、ついに審理に付された。
  • 楊士竒は老病により休職中であった。天子は楊士竒の心を傷つけることを恐れ、詔を降して慰め励ました。楊士竒は感泣し、憂えて起き上がれなくなり、九年(1444年)三月に卒す。年八十。太師を贈られ、諡は文貞。有司はそこで稷を処断して死刑とした。

先見と人物鑑定

  • 正統の初め、楊士竒は「衞拉特がしだいに強くなり辺境の患いとなろうが、辺軍は馬を欠いていて防ぎきれぬ恐れがある」と言い、近くの太僕寺から西番の貢馬を受け取り、それもことごとく支給するよう請うた。楊士竒が没して間もなく額森が果たして侵入し、土木の難が起きたので、識者はその言を思い起こした。
  • また人を見る目に優れ、無名の士を推挙するのを好んだ。薦めて世に出た者の中には、初め面識も無かった者がいる。于謙・周忱・况鍾らはみな楊士竒の推薦によって用いられ、官にあること十年二十年、その廉潔と有能さは天下第一と称され、世の名臣となった。
  • 次子の□(底本欠字)は蔭によって尚寳丞に補せられ、成化中に太常少卿に進んで司の事を掌った。