明史卷一百四十七 列傳第三十五 胡儼

出自と地方官

  • 胡儼は字を若思といい、南昌の人。若くして学を好み、天文・地理・律暦・医卜に至るまで究めぬものが無かった。
  • 洪武中、挙人として華亭教諭を授けられ、師の道をもって自ら任じた。母の喪に服し、服が明けて長垣に改まり、養親に便利な地を願い出て餘干の学官に改まった。学官が便地を願い出るのは胡儼に始まる。
  • 建文元年(1399年)、薦められて桐城知縣を授かり、桐陂の水を鑿いて田に灌ぎ、民の利とした。県に人を傷つける虎が出たとき、胡儼が斎戒沐浴して神に告げると虎は去り、桐城の人は朱邑の祠に胡儼を祀った。
  • 四年(1402年)、副都御史の練子寧が朝廷に薦めて「胡儼は学は天人に達するに足り、智は帷幄を助けるに足る」と言った。召されて至ったときには燕の軍がすでに長江を渡っていた。

内閣から国子監祭酒へ

  • 成祖が即位すると「胡儼は天文を知るという。欽天監に試させよ」と言い、試験の結果、胡儼はまことに象緯・気候の学に通じていると奏された。まもなく解縉の推薦により翰林檢討を授けられ、解縉らとともに文淵閣に直し、侍講に遷り、左庶子に進んだ。父の喪に服して起復した。
  • 胡儼は閣にあって顧問に応じ、人に先んじようとしなかったが、やや愚直であった。
  • 永樂二年(1404年)九月、國子監祭酒を拝し、以後は機務に与らなくなった。
  • 当時は法の運用が厳峻で、国子生が用事にかこつけて帰郷を願うと辺境の戍に処せられた。胡儼は着任するとすぐ奏してこれを除いた。
  • 七年(1409年)、帝が北京に行幸すると召されて行在に赴いた。翌年の北征では、祭酒のまま侍講を兼ね翰林院の事を掌り、皇太孫を輔けて北京に留守した。
  • 十九年(1421年)、北京國子監祭酒に改まった。

館閣の宿儒として

  • このころ海内は統一されて五十年に近づき、帝は内には礼楽を興し、外は辺遠の地を懐柔し、公卿大夫には文学の士が多く揃っていた。胡儼は館閣の宿儒であり、朝廷の大きな著作の多くはその手から出た。『太祖實録』の重修、『永樂大典』、天下の図誌には、いずれも総裁官を務めた。
  • 国学に居ること二十余年、身をもって教えを率い、動けば師としての法があった。
  • 洪熙改元(1425年)、病により退官を願うと、仁宗は敕を賜わって奨励ねぎらい、太子賓客に進めて祭酒を兼ねたまま致仕させ、その子孫の徭役を免じた。宣宗が即位すると禮部侍郎として召されたが、辞して帰った。
  • 家に居ること二十年、地方の重臣もみな師の礼をもって遇したが、胡儼は語り合っても私事に及んだことがなかった。自らは淡泊に処し、季節ごとの衣食もようやく足りるほどであった。
  • 初め湖廣の考官となったとき、楊溥の文を得て大いに驚き、その上に「必ず董仲舒のような正言をなし、公孫弘のような阿諛はしないであろう」と書き記した。世人はその人を見る目を認めた。
  • 正統八年(1443年)八月に卒す。年八十三。

史論

  • 贊に曰く。明初に丞相を廃し、事の権を六部に分けた。成祖が初めて儒臣に文淵閣に直して機務に与らせ、仁宗・宣宗に及んで閣の権はいよいよ重く、実質は丞相の事を行うようになった。解縉以下の五人は、詞林から最初に入閣した者である。
  • そもそも禁密の地に身を置く者は必ず公正をもって自ら持し、とりわけ厚重で口を漏らさぬことが貴い。解縉は若くして才が高く、天下を匡救する大略を自負した。太祖が十年の進学を命じたのは、深く愛したからである。それなのに動くたびに謗りを受け、天寿を全うできなかったのは、はたしてすべて賢を嫉み能を害する者のせいで、そうなったのだろうか。
  • 黄淮の功は輔導にあり、金幼孜の労は扈従に著れ、胡儼は久しく国学にあった。諸臣が心置きなく密かに事に応じて忠を尽くしたさまを見れば、まことに文字・翰墨だけを功績としたのではない。ただ胡廣は大節に欠けるところがあり、同列に対して恥じるところが無いといえようか。