出自と経筵
- 金幼孜は名を善といい字をもって通った。新淦の人。建文二年(1400年)の進士で、戸科給事中を授かった。
- 成祖が即位すると翰林檢討に改まり、解縉らとともに文淵閣に直し、侍講に遷った。
- 当時、翰林・坊局の臣が東宮で書を講ずるときは、みな先に経義を用意して閣臣が検閲し校正し、帝に呈して覧たうえで進講した。解縉は『書』、楊士奇は『易』、胡廣は『詩』、金幼孜は『春秋』を担当し、そこで『春秋要㫖』三巻を進めた。
- 永樂五年(1407年)、右諭徳兼侍講に遷った。このとき吏部に諭して、内閣に直する諸臣、胡廣・金幼孜らは考満になっても他の任に改めないこととした。
北征の扈従
- 七年(1409年)、北京への行幸に従った。翌年の北征では、金幼孜は胡廣・楊榮とともに扈従した。清水源に駐まったとき泉が湧き出し、金幼孜は銘を献じ、楊榮は詩を献じて、いずれも上尊の酒をねぎらいに賜わった。
- 帝は金幼孜の文学を重んじ、通過する山川の要害はそのつど記させた。金幼孜は鞍上で草稿を起こし、たちどころに仕上げた。
- 衛拉特を征して還るとき、帝は金幼孜らを召して輿の傍らを歩かせ、敵中の事を語り、たいそう頼りにした。
- かつて胡廣・楊榮および侍郎金純とともに道に迷って谷に落ち込んだことがある。日が暮れ夜になり、金幼孜が落馬すると、胡廣と金純は顧みずに去った。楊榮が鞍を結び直してやり、進んでまた落ちると、楊榮は自分の馬に乗せ、翌日ようやく行在所に着いた。その夜、帝は使者十余人を遣わして楊榮と金幼孜の跡を尋ねさせたが見つからず、到着すると帝は顔色に喜びを表した。
- 以後の北征にはすべて従い、その撰したものに『北征前録』『北征後録』の二録がある。
- 十二年(1414年)、胡廣・楊榮らとともに五経・四書の『性理大全』を編纂するよう命ぜられ、翰林學士に遷った。十八年(1420年)、楊榮とともに文淵閣大學士に進んだ。
最後の北征と成祖の崩御
- 二十二年(1424年)、北征に従った。途中で兵が疲れ、帝が群臣に諮ったが誰も敢えて答えず、ただ金幼孜だけが深入りすべきでないと言ったが、聴かれなかった。
- 開平に宿ったとき、帝は楊榮・金幼孜に「朕は夢で神人が『上帝は生を好む』と二度言うのを聞いた。これは何の兆しか」と言った。二人は「陛下のこの挙は暴を除き民を安んずるためではありますが、火が崑岡を焼けば玉も石もともに焼けます。どうかお心にお留めください」と答え、帝は然りとして、ただちに詔を草して諸部に招諭させた。
- 軍が還って榆木川に至ったとき帝が崩じた。喪を秘して発せず、楊榮が京師に訃を報じ、金幼孜は梓宮を護って帰った。
仁宗・宣宗の朝
- 仁宗が即位すると戸部右侍郎兼文淵閣大學士を拝し、まもなく太子少保兼武英殿大學士を加えられた。
- その年十月、金幼孜・楊榮・楊士奇に承天門外で罪囚を会同して審録するよう命じ、法司が重囚を録するときは必ず三学士を会同させることを詔した。委任はいよいよ重くなった。
- 帝は西角門に出御して廷臣の制誥を閲し、三学士を顧みて「汝ら三人と蹇・夏の二尚書は皆先帝の旧臣である。朕はまさに汝らを頼りとしている。前代の人主が直言を聞くのを嫌えば、日ごろ親信された者でさえ威を畏れて旨に順い、黙って迎合し、賢良の臣は言が聴かれぬので退いて口を閉ざす。朕と卿らはこれを深く戒めとすべきである」と言い、五人の誥詞を取り寄せて自ら「崇高ゆえに入れがたいと言うなかれ、従うか違うかがあるからといって怠るなかれ」の二語を書き加えた。金幼孜らは頓首して謝した。
- 洪熙元年(1425年)、禮部尚書兼大學士に進み、学士は従来どおり、あわせて三俸を給された。まもなく母を省みるため帰郷を願い、翌年に母が卒した。
- 宣宗が立つと詔して起復させ、両朝の実録を修めるのに総裁官を務めさせた。
- 三年(1428年)、節を持して寧夏に赴き、慶府郡王妃を冊立した。通過した地では兵民の疾苦を尋ね、還って奏し、帝は嘉して容れた。
- 巡辺に従って雞鳴山を通ったとき、帝が「唐の太宗はその英武を恃んで遼を征し、かつてこの山を過ぎた」と言った。金幼孜は「太宗はまもなくこの役を悔い、それゆえ憫忠閣を建てました」と答えた。帝が「この山は元の順帝のとき崩れ、元の滅亡の兆しとされた」と言うと、「順帝は亡国の主です。たとえ山が崩れずとも国は必ず亡んだでしょう」と答えた。
- 宣徳六年(1431年)十二月に卒す。年六十四。少保を贈られ、諡は文靖。
- 金幼孜は簡素で静黙、寛やかで包容力があり、待遇が厚くなるほど自らはいっそう謙った。平生の居室を「退庵」と名づけた。病が篤くなったとき、家人が死後の恩典を請おうとしたが聴かず、「これは君子の恥とするところだ」と言った。