出自と封爵
- 徐祥は大冶の人。初め陳友諒に仕え、江州で太祖に帰順した。功を積んで燕山右䕶衞副千戸に至った。成祖はその謹直さを買って側近に侍らせ、挙兵に従って四年間転戦し、いずれも功があり、都指揮使に累進した。
- 成祖が即位すると論功により興安伯に封ぜられ、禄は千石。
- このとき伯に封ぜられたのは、徐祥および徐理・李濬・張輔・唐雲・譚忠・孫巖・房勝・趙彞・陳旭・劉才・茹瑺・王佐・陳宣の十四人で、徐祥がその第一であった。
- 徐祥は諸将の中でやや年長であり、封を受けてからはいっそう勤勉で慎み深かった。永樂二年(1404年)五月に卒す。年七十三。
子孫の相承
- 孫の亨が嗣ぎ、十二年(1414年)に北征に従って中軍副將となり、圖拉河に至って馬三千頭を獲た。還って䦕平を守り、軽騎を率いて興和と大同の間を往来して辺に備え、後もたびたび塞外に出た。
- 宣徳元年(1426年)、右副將として交阯を征したが功無く、爵を奪われた。英宗が即位して復された。正統九年(1444年)、烏梁海を征して界嶺口・河北川に出て、侯に進み、陝西の鎮守に出て召還された。天順の初めに卒し、諡は武襄。
- 子の賢が伯を嗣いだが、跛のため朝謁を免ぜられ、禄の半分を給された。卒して子の盛が嗣ぎ、卒して子が無かった。
- 再従弟の良が嗣いだ。良の祖母はもと小妻であり、継祖母は定襄伯郭登の娘であった。ここに至ってその孫たちが襲爵を争ったが、朝議は「郭氏は初め他人に嫁いだことがあり、法として正嫡とすべきでない」として、良が嗣ぐことになった。
- 良はときに年五十、家は貧しく大中橋で水汲みの雇われ仕事をしていた。都督府が興安伯の後継を求めたので、良は隣人に礼を述べて去った。南京中府の僉書となり、劉瑾に忤らって禄二百石を革された。爵は明の亡ぶまで伝わった。