明史卷一百四十六 列傳第三十四 張信

燕王への密告

  • 張信は臨淮の人。父の興は永寧衞指揮僉事で、張信が職を嗣ぎ、普定・平越の守りに移り、功を積んで都指揮僉事に進んだ。
  • 惠帝が即位したばかりのころ、大臣が張信を謀略と勇気があると薦め、北平都司に転じ、張昺・謝貴とともに燕王を図れという密詔を受けた。張信は憂え懼れてどうしてよいか分からず、母が怪しんで問うので告げると、母は大いに驚いて「いけません。お父上はいつも王気は燕にあると言っておられた。軽々しく事を起こして一族を滅ぼしてはならぬ」と言った。
  • 成祖は病と称していたので、張信は三度も燕邸を訪ねたが辞して会ってもらえなかった。強いて請うて入り、寝台の下に拝して密かに事情を打ち明けた。成祖は愕然として起ち上がり、諸将を召して計を定め、兵を起こして九門を奪った。

寵遇と驕慢

  • 成祖が京師に入ると、その功は諸々の戦将に比され、都督僉事に進み、隆平侯に封ぜられ、禄は千石、世襲伯の券を賜わった。
  • 成祖は張信に深く恩を感じ、「恩張」と呼んだ。張信の娘を妃に納れようとしたが、張信は固く辞退し、これでいっそう重んぜられた。藩王の動静を察するなどの機密の事は、すべて張信に命ぜられた。
  • 張信は寵を恃んでかなり驕った。永樂八年(1410年)冬、都御史陳瑛が「張信には汗馬の労も無いのに侯爵を忝なくし、恣に貪り、丹陽縣の湖八十余里、江陰の官田七十余頃を強占している。有司に下して調べさせるべきだ」と言った。
  • 帝は「陳瑛の言うとおりだ。昔、中山王に沙洲一区があり、農耕の水路が通っていたのを家僮が阻んで利を独占した。王はこれを聞いてただちにその地を官に返した。今、張信は何とてかようなことをするのか」と言い、法司に合議して裁かせた。ただしまもなく旧勲を理由に不問とした。

晩年

  • 永樂二十年(1422年)、北征に従って糧餉の輸送を監督したが、隰寧の大閲に張信は病と称して来ず、辦事官に落とされ、のち復職した。
  • 仁宗が即位すると少師を加えられ、二俸を併せ支給され、世襲侯の券を賜わった。
  • 宣徳元年(1426年)、樂安征討に従った。三年(1428年)、帝が辺を巡り烏梁海を征したとき留守を命ぜられた。翌年、軍一万五千人を監督して河西務の河道を浚えた。
  • 正統七年(1442年)五月、南京で卒し、鄖國公を贈られ、諡は恭僖。
  • 子の鏞は自力で功を立てて指揮僉事となったが先に卒し、子の淳が嗣いで、爵は明の亡ぶまで伝わった。

唐雲(附)

  • 唐雲という者がいた。燕中中䕶衞の指揮で、その出自は分からない。
  • 成祖が張昺・謝貴らを殺した後も、将士はなお九門に拠って甕城を閉ざし、戈㦸を内側に向けて構えていた。張玉らが夜襲してそのうち八門を落としたが、西直門だけが下らなかった。
  • 成祖は唐雲に甲を脱がせ、平時どおりに馬に乗って供を従えさせ、守る者に「天子はすでに王が一方を自ら制することをお認めになった。汝らは急ぎ退け。遅れる者は斬る」と諭させた。唐雲は諸指揮の中で最年長で、平素から信実で慎み深かったので、将士は偽りではないと考え、散っていった。
  • 当時、人心はまだ帰服していなかったが、唐雲が天意の向かうところを告げると人々は落ち着いた。
  • 唐雲は久しく成祖の側に出入りして深く頼りにされ、出師のたびに留まって世子を輔けた。南の兵がたびたび城を攻めたが、拒み守ることきわめて力を尽くし、戦って失利したことがなかった。
  • 都指揮使に累遷し、成祖が帝を称すると新昌伯に封ぜられ、世襲は指揮使。翌年七月に卒し、賜わり物はきわめて厚かった。