出自と靖難
- 李濬は和州の人。父の旺は洪武中の燕山左䕶衞副千戶で、李濬が職を嗣いだ。
- 挙兵に従って九門を奪い、薊州・永平で壮勇の士数千人を募り、南軍を眞定に破った。大寧の収取に従い、鄭村壩の戦いでは精騎を率いて敵陣に突入し、衆が鬨の声を挙げてこれに乗じ大勝した。
- 山東に転戦して前鋒となり、小河に至ったとき突然南軍と遭遇し、決死の兵を率いてまず河の橋を断ったので南軍は争うことができず、成祖が到着してこれを大敗させた。
- 都指揮使に累遷し、襄城伯に封ぜられ、禄は千石。
- 永樂元年(1403年)、江西の鎮守に出た。永新で盗賊が起こると、その首魁を捕らえて誅し、まもなく召還された。三年(1405年)十一月に卒した。
子の隆
- 子の隆は字を彦平といい、年十五で封を嗣いだ。堂々たる体躯で将略があり、たびたび北征に従って奇計を出し敵情を測ったので、成祖はこれを器量ある者とした。
- 遷都の後、南京は根本の地であるとして隆に留守を命じた。仁宗が即位すると山海關の鎮守を命ぜられ、まもなくまた南京を守った。
- 隆は書を読んで文を好み、事を論ずるに侃々として、清廉慎重で法を守り、とりわけ士大夫を敬い礼遇した。南京にあること十八年、前後に賜わった璽書は二百余通に及んだ。召還されるとき、南京の民は涙を流して江上に見送った。
- 正統五年(1440年)、入って禁軍を総べた。十一年(1446年)、大同の辺を巡り、宝刀一口を賜わった。戒備を申し飭したが、還るまで一人も殺さなかった。翌年に卒した。
子孫の相承と末路
- 子の珍が嗣ぎ、土木で戦没した。侯を贈られ、諡は悼僖。子が無く、弟の瑾が嗣いだ。
- 成化三年(1467年)、四川の都掌蠻が叛いたので、征夷將軍の印を佩びて總兵官に充てられ討伐に赴き、兵部尚書程信がこれを監督した。軍が永寧に至ると六路に分かれて進み、瑾と信は中央にあって全軍を節制し、諸蠻の寨をことごとく破った。前後に斬首四千五百余級、鎧・武器・家畜の鹵獲は数え切れなかった。都掌の地を分けて官を置き治所を建て、これを抑えた。軍が還ると侯に進み、太保を加えられた。𢎞治二年(1489年)に卒し、芮國公を贈られ、諡は壯武。
- 瑾は寛大で士に謙る人柄であった。兄の璉は容貌が醜いとして嗣ぐことができなかったが、瑾は手厚く敬い礼遇し、璉が卒するとその子の鄌を自分の子のように養った。瑾の子の黼が伯を嗣いで数年で卒し、子が無かったので、鄌が嗣ぐことができた。
- 四代を伝えて守錡に至り、たびたび営務を掌り太子少保を加えられた。崇禎の初め、京營を総督したが、営に坐する兵卒が盗賊となったことに坐して落職し、憂憤のうちに卒した。
- 子の國禎が嗣いだ。弁が立ち、召し出されて兵事を陳べるさま詳細をきわめたので、帝はその才を信じ、十六年(1643年)に京營の総督を命じて頼りにしたが、國禎には実のところ他の能は無かった。
- 翌年(1644年)三月、李自成が京師を犯すと、三大營の兵は戦わずして潰えた。二晩を経て城は陥ち、賊は國禎に降伏を強いた。國禎は甲を解いて命に従ったが、賄賂の額が足りぬとして拷問され、踝を折られ、首をくくって死んだ。