出自と方孝孺への献策
- 黄鉞は字を叔揚、常熟の人。若くして学を好んだ。家に葛澤陂の田があり、父は鉞にそこで耕作を監督させたが、鉞は友人の家から本を借りて隠れて読み、学問をやめなかった。
- 縣から賢良として挙げられ、宜章典史に任じられた。建文元年(1399年)に湖廣の郷試に及第し、翌年進士を賜って刑科給事中に任じられた。
- 三年(1401年)、父の喪に服した。方孝孺が弔問に来て、人払いをして問うた。「燕兵は日々南下している。蘇州・常州・鎮江は京師の左の輔けである。君は呉の人で朝廷の近臣だ。今は去るとはいえ、教えてくれることがあろう」と。
- 鉞は答えた。「三府のうち鎮江がもっとも要害である。守る者が適任でなければ、垣を取り払って盗を招き入れるのと同じだ。指揮の童俊は狡猾で任せられない。上前で奏事するとき視線が遠く言葉が浮ついており、心底が測りがたい。蘇州知府の姚善は忠義激烈で国士の風があるが、仁に過ぎて部下への統御が緩く、乱を鎮めるには足りぬ恐れがある。そもそも国家の大勢としては上流を守るべきで、兵が江南に至ってから防いでも間に合わない」と。
- 孝孺はそこで鉞に託して善に書を送った。善は書を得て鉞と向かい合って泣き、国に殉ずることを誓った。
入水
- 鉞は家に帰り、父の柩に寄り添って暮らした。燕兵が長江に至ると、善は詔を受けて兵を統べて勤王し、書を送って鉞を招いた。鉞は事が成らないと知り、葬礼を終えてから赴くと言って断った。まもなく童俊は果たして鎮江をもって燕に降った。
- 鉞は国の変事を聞いて門を閉ざし外に出なかった。翌年、戸科左給事中として召されたが、途中で自ら水に身を投げた。溺死と届けられたので、その家は連座を免れた。
曽鳯韶
- 曽鳯韶は廬陵の人。洪武末年の進士。建文の初めに監察御史となった。
- 燕王が帝を称し、もとの官で召したが応じず、さらに侍郎として召された。免れられないと知り、血を刺して衣の襟に書いた。その趣旨は、自分は忠節の郷である廬陵に生まれ、もとより剛直な気性を持ち、書を読んで進士に登り、仕えて錦衣郎に至った。今、死ぬべきときに死ねるのは喜ばしく、地下で文天祥に会っても恥じることはない、というものであった。
- 妻の李氏と子の公望に、自分の衣を替えずそのまま殮するよう遺言し、自殺した。年二十九。李もまた節を守って死んだ。