出自と資治八策
- 王叔英は字を原采、黄巖の人。洪武年間に楊大中・葉見泰・方孝孺・林右とともに徴されて京に至ったが、叔英は固辞して帰った。二十年(1387年)、推薦で仙居訓導となり、徳安教授に移り、漢陽知縣に遷った。恵政が多く、旱魃で食が絶えたとき祈ったところ、たちどころに験があった。
- 建文の時、召されて翰林修撰となり、「資治八䇿」を奉った。学問に努めること、好悪を慎むこと、邪正を弁ずること、諫言を容れること、才の有無を審らかにすること、刑罰を慎むこと、利害を明らかにすること、法制を定めること、の八つで、いずれも古今の実例を引いて行いに移せるものだった。
- また言った。「太祖は奸悪を除き強を抑え害を鋤かれた。医者が病を除き、農夫が草を除くようなものです。病を急いで除けば体を傷つけることがあり、草を厳しく除けば禾を傷つけることがある。病が去れば血気を調え養うべく、草が去れば根と苗を培い養うべきです」と。帝はこれを嘉して容れた。
廣徳での自経
- 燕兵が淮に至ると、詔を奉じて兵を募り、廣徳まで来たところで京城が守り切れなくなった。折しも齊泰が逃れて来た。叔英は泰に二心があると見て捕らえようとしたが、泰が事情を告げたので、互いに取りすがって慟哭し、ともに再挙を図った。
- やがて事は成らないと知り、沐浴して衣冠を改め、絶命の詞を書いて衣の裾に隠し、元妙觀の銀杏の樹の下で首を吊った。天台の道士の盛希年が城の西五里に葬った。
- その詞の趣旨はこうである。人が天地の間に生きる以上、忠と孝を全うすることこそ尊い。自分は君と父に仕えて過ちが多かった。志を遂げないうちに思わぬ重病に纏われ、うまい食べ物が膳にあっても喉を通らない。造化の神の命によって九泉に帰るのであろう。かねて伯夷・叔齊が首陽山で餓死したことを思うが、周の粟がどうして悪かろう、あの見識はいささか偏っていた。その高い足跡は継ぎがたく、自分などたまたま死ぬだけで伝えるに足りない。千秋の史官の筆よ、どうか自分を賢者になぞらえてくれるな、と。
- また机の上に題して言った。「生きることはもう終わった、当時に何の補いもなかった。死もまた空しいが、後世に恥じることはあるまい」と。
- 燕王が帝を称すると、陳瑛がその家を没収した。妻の金氏は首を吊って死に、二人の娘は錦衣獄に下されて井戸に身を投げて死んだ。
井田論をめぐる方孝孺への書
- 叔英は方孝孺と親しく、道義をもって互いに切磋した。建文の初め、孝孺が井田を行おうとしたとき、叔英は書を送って言った。
- 人が才を持つのは確かに難しいが、その才を用いることはさらに難しい。張子房は漢の高祖に対してその才を用いえた者であり、賈誼は漢の文帝に対してその才を用いえなかった者である。子房は高帝が行いうることを見極めて言ったから、高帝はこれを用い、当代がその利を受けた。樊噲・酈商のように親しい者、陳平・周勃のように信任された者、蕭何・曹参のように任を負った者でさえ、その間に割って入ることはできなかった。賈生は見極めずに軽々しく言い、しかも言い過ぎたので、絳侯・灌嬰の類につけ入る隙を与えた。
- 今、明君と良臣が出会うのは千載一遇である。ただし、古に行われて今にも行えることがあり(夏の暦、周の冠の類)、古に行われて今には行えないことがある(井田・封建の類)。行えることを行えば人は従いやすく民はその利を楽しむが、行いがたいことを行えば従うのは難しく民はその害を受ける、と。
- 当時、井田は結局行われなかったが、孝孺はついに周官によって制度を改め、実際の事には何の助けにもならず、燕王に口実を与えた。論者は叔英の見識に服し、孝孺がその言を用いなかったことを惜しんだ。
林英
- 当時、御史で古田の人の林英もまた廣徳で兵を募っていた。事が成らないと知り、二度拝して首を吊った。妻の宋氏も獄に下され、やはり首を吊って死んだ。