明史卷一百四十三 列傳第三十一 黄觀

出自と三元

  • 黄觀は字を伯瀾、また尚賔ともいう。貴池の人。父が許家に入り婿したので許姓を名乗り、元の待制の黄冔に学んだ。冔が節に殉じて死んだので、觀はいっそう自ら励んだ。
  • 洪武年間に貢生として太學に入り、父母の墓を絵に描き、仰ぎ拝するたびに涙を流した。二十四年(1391年)、會試も廷試もともに首席となった。禮部右侍郎まで累進し、そこで奏して本姓に復した。
  • 建文の初め、官制が改められて左右侍中が尚書に次ぐ地位となり、觀は右侍中に改められ、方孝孺らとともに親任された。

一族の死

  • 燕王が挙兵すると、觀は詔勅の草稿を書き、軍を解いて藩に帰り身を束ねて謝罪せよと諷し、言葉は極めて厳しく指弾するものだった。
  • 建文四年(1402年)、上流で兵を募り、あわせて諸郡の兵を督して救援に赴くよう奏した。安慶まで来たとき、燕王はすでに長江を渡って京師に入り、左班文職の奸臣の罪状を暴く令を下していた。觀の名は第六にあった。
  • まもなく国の宝璽を探したが所在が分からず、すでに觀に渡して兵を集めに出したという者があった。役所に追捕を命じ、觀の妻の翁氏と二人の娘を捕らえ、象の飼育奴に下げ渡した。奴が釵や釧をよこせと言って酒肴を買おうとすると、翁氏はすべて与えて持ち去らせ、すぐさま二人の娘と家族十人を連れて淮清橋の下に身を投げて死んだ。
  • 觀は金川門が守り切れなかったと聞き、「私の妻は志節がある。必ず死んだであろう」と嘆じ、招魂して江上に葬った。船を羅刹磯まで進め、朝服のまま東に向かって拝し、流れの急なところに身を投げて死んだ。
  • 觀の弟の覯は先にその幼い子を匿って他所へ逃がした。一説には、覯の妻の畢氏が実家で寡婦として暮らし、遺腹の子を生んだので、黄氏は貴池に後裔を残したという。

翁夫人血影石

  • はじめ觀の妻が水に身を投げたとき、石の上に血を吐き、それが小さな影像となって、陰雨のときには現れた。世に大士(觀音)の像と伝えられ、僧が庵に運び入れた。翁氏が夢に現れて「私は黄狀元の妻である」と告げた。夜が明けて水をかけると影はいっそう鮮明になり、愁え悲しむ姿をしていた。のちに觀の祠に移され、「翁夫人血影石」と呼ばれ、今も残っている。