明史卷一百四十三 列傳第三十一 程本立

出自と学問

  • 程本立は字を原道、崇徳の人。先儒の程頥の後裔である。父の得剛は才気を負って元に仕えなかった。將の路成の兵が皂林を通ったとき乱暴に掠奪したので、徳剛が利害を説いた。成は喜んで部下を戒め、官に推挙しようとしたが、辞して去った。
  • 本立は若くして大志を抱き、読書は章句にこだわらなかった。海鹽の沈夀康と親しく、夀康は「学者は競って科挙に励み、経を究めるという名目ばかりで実学がない。君は資質が篤実だから、聖賢の学を志すべきだ」と言った。本立はいっそう自ら励んだ。金華の朱克修が許謙から朱子の伝を受け継いだと聞き、赴いて学んだ。

雲南での九年

  • 明經秀才に挙げられて秦府引禮舍人に任じられ、楮幣と鞍馬を賜った。母の喪で官を去り、喪明けに周府禮官に補され、王に従って開封に赴いた。二十年(1387年)春、長史に進み、王に従って入朝したが、連座して雲南馬龍他郎甸長官司吏目に落とされた。家族を大梁に残し、僕一人を連れて任地に赴いた。
  • 土酋の施可伐が百夷を煽動して乱を起こすと、本立は単騎でその根拠地に入り、禍福を説いて諸酋をみな帰服させた。まもなくまた変が起こると、西平侯の沐英と布政使の張紞は本立の賢を知って、県を巡り兵事を司らせた。撫と防を兼ねながら、椘雄から姚安、大理・永昌・鶴慶・麗江へと、山を行き野に宿して往来し慰撫すること九年、民も夷も安んじて生業に就いた。
  • 三十一年(1398年)、上計のため京師に至り、學士の董倫と府尹の向寳がともに推薦した。翰林に召されて太祖實録の編纂に参与し、右僉都御史に遷った。俸禄のほかは一切の贈答を受けなかった。
  • 建文三年(1401年)、陪祀を欠いたことに坐して官を貶されたが、なお留まって實録の編纂に当たった。完成後、江西副使として出るはずだったが、赴任しないうちに燕兵が入り、自ら首を吊って死んだ。