出自と官歴
- 周是修は名を徳といい、字の方で通っていた。泰和の人。洪武の末に明經で挙げられ、霍邱訓導となった。太祖が家にいて何をしていたかと問うと、「人の子弟に孝悌と農耕への励みを教えておりました」と答えた。太祖は喜んで周府奉祀正に抜擢した。
- 一年余りで王に従って北征し、黒山まで至って還り、紀善に遷った。
- 建文元年(1399年)、王の不法を告発する者があり、属官はみな役人に引き渡されたが、是修はかつて王を諫めたことがあったので免れ、衡府紀善に移された。衡王は惠帝の同母弟でまだ藩地に赴いていなかったので、是修は京師にとどまり、翰林の纂修に参与した。人材の推薦を好み、国家の大計を論じた。
自経
- 燕兵が淮を渡ると、蕭用道とともに上書して当路の者を指弾した。当路者は怒って一緒になって是修を挫こうとしたが、是修は毅然として動じなかった。
- 京城が守り切れなくなると、書き置きを残して友人の江仲隆・解縉・胡靖・蕭用道・楊士竒に別れを告げ、後事を託した。衣冠を整え、賛を作って衣帯の間に挟み、應天府學に入って先師を拝したのち、尊經閣で首を吊った。年四十九。
- 燕王が帝位に即くと、陳瑛が是修は天命に順わなかったとして追って戮することを請うた。帝は「彼はその禄を食み、自らの心を尽くしたのだ。問うな」と言った。
- 是修は外は和やかで内は剛く、志操は際立ち、義でないものは一介たりとも受け取らなかった。かつて「忠臣は損得を計らないから言葉は必ず率直であり、烈女は生死を思わないから行いは必ず果断である」と言った。古今の忠節の事跡を集めて『觀感録』を作った。その学は経史百家から陰陽・医術・卜筮に至るまで究めないものがなく、文章は筆を執ればたちどころに成り、しかも雅やかで豊かで筋が通っていた。
- はじめ楊士竒・解縉・胡靖および金㓜孜・黄淮・胡儼と生死をともにする約束をしていたが、難に臨んでその志を貫いたのは是修だけであった。