題壁の詩から大理寺少卿へ
- 胡閏は字を松友といい、鄱陽の人。太祖が陳友諒を征したとき、長沙王吳芮の祠を通りかかり、壁に題された詩を見て感心し、ただちに帳前に召見した。
- 洪武四年(1371年)に郡から秀才として挙げられて参内すると、帝は「これが鄱陽の廟の壁に詩を題した書生か」と言い、都督府都事に任じ、經歴に遷した。
- 建文の初め、右補闕に選ばれ、まもなく大理寺少卿に進んだ。燕の軍が起こると、齊泰・黄子澄らとともに昼夜軍事を計画した。
- 京師が陥落して閏が召されたが屈せず、子の傳道とともに死んだ。幼子の傳慶は辺境に戍らされた。
- 四歳の娘の郡奴は功臣の家に入れられたが、少し成長して大義を知り、日々かまどの灰で顔を汚した。洪熙の初めに赦されて郷里に還ったが、きわめて貧しく、嫁がぬと誓った。見る者は争って銭や穀を贈り、「これは忠臣の娘だ」と言った。
高翔(胡閏に附す)
- 高翔は朝邑の人。洪武年間に明経から監察御史となり、建文年間には兵事に力を尽くした。
- 成祖はその名を聞いて閏とともに召し、用いようとした。翔は喪服を着て参内し、言葉が不遜であったので一族を誅され、その先祖の墓を暴かれ、親族はことごとく辺境に戍らされた。高氏の産を給された者にはみな課税を加え、「代々翔を罵らせるためだ」と言った。