明史卷一百四十一 列傳第二十九 王度

監察御史としての献策

  • 王度は字を子中といい、歸善の人。若くして学に励み、文辞に巧みで、明経から推薦されて山東道監察御史となった。
  • 建文年間、燕兵が起こると、度は心を尽くして事を助けた。王師がたびたび敗れると、度は募兵を奏請した。小河の勝利のときには命を受けて徐州に軍を労いに行った。
  • 帰ると方孝孺が度に書を送り、ともに社稷に殉ずることを誓った。
  • 燕王が帝を称すると、方孝孺の党に坐して賀縣に謫戍され、さらに言葉が不遜であるとして一族を誅された。
  • 度には智計があった。盛庸が李景隆に代わったとき、度がひそかに便宜の策を陳べたので東昌の勝利があった。景隆は召還されて赦され誅されなかったばかりか、逆に権を握って庸らの功を忌み、讒言して離間した。度もまた疎んじられた。論者はその才が用い尽くされなかったことを惜しんだ。

戴徳彝(王度に附す)

  • 戴徳彝は奉化の人。洪武二十七年(1394年)の進士。官を重ねて侍講となった。
  • 太祖は諭して「翰林は文学の職とはいえ、禁中の近くに列している以上、国家の政治の得失、民生の利害について、知っていることは言い尽くさねばならぬ。昔、唐の陸贄・崔羣・李絳は翰林にあって、いずれも正論・直言によって当時を補った。そなたも古人をもって自ら期すべきだ」と言った。
  • のちに監察御史に改められ、建文年間には左拾遺に改められた。燕王が入って召見したが屈せず死んだ。
  • 徳彝が死んだとき、兄弟はともに京師にいた。兄嫁の項氏は家にいて変を聞き、禍が一族に及ぶと察して、家中の者をみな逃がし、徳彝の二子を山中に隠し、戴氏の族譜を焼き、自分ひとり家に残った。捕吏が来ても何も得られず、項氏を械にかけて京へ連行し、拷問したが最後まで一言も口を割らなかった。戴の一族はそのおかげで全うされた。

謝昇・丁志方・甘霖(王度に附す)

  • 当時、御史で屈せず死んだ者には諸城の謝昇、聊城の丁志方があり、懷寧の甘霖は従容として刑に就いた。その子孫は互いに戒めて再び仕えなかった。

董鏞(王度に附す)

  • また董鏞という者があり、出自は明らかでない。志節のある諸御史は、しばしば鏞のもとに集まって死をもって国に報いようと誓い合った。
  • 諸々の将校が形勢をうかがって力戦しないでいると、鏞はそのつど公然と弾劾の章を上げた。城が破れて殺され、家族は最も遠い辺境に戍らされた。

陳繼之・韓永・葉福(王度に附す)

  • 給事中で死んだ者には陳繼之・韓永・葉福の三人がある。
  • 繼之は莆田の人。建文二年(1400年)の進士。当時、江南の僧と道士は肥沃な田を多く持っていたので、繼之は一人五畝を限度とし、余りを民に賦するよう請い、採用された。兵事が急になると、しばしば機宜を条陳した。燕兵が入ると屈せず殺され、父母兄弟はことごとく辺境に戍らされた。
  • 永は西安の人。一説に浮山の人という。容貌は堂々とし、声は朗々として、常に気概をもって兵事を論じた。燕王が入って官に就けようとしたが、抗弁して屈せず死んだ。
  • 福は侯官の人で、繼之と同年の及第。燕兵が至ったとき金川門を守り、城が陥落して死んだ。

史論

  • 賛にいう。帝王が事を成すのはもとより天が授けるところによる。成祖が天下を得たのは人力で防げるものではなかった。
  • 齊泰・黄子澄・方孝孺・練子寧の輩は、国を謀る忠を抱きながら勝ちを制する策に乏しかった。
  • しかしその忠憤の発するところ、刀鋸や鼎鑊を飴のように甘んじて受けた。百世の後にも凛として生気があるかのようである。国事を顧みず、ただ一死をもって言い訳とする者と同日に論じられようか。
  • こう見れば、成敗という常のものさしで論ずることはできないのである。