経歴と燕王の賞賛
- 景清はもとの姓を耿といい、訛って景となった。真寧の人。豪放で大節を尚び、書は一度読めば忘れなかった。
- 洪武年間の進士で編修に任じられ、御史に改められた。洪武三十年(1397年)春に召見され、左僉都御史の署に任じられたが、奏疏の字を誤り、印を懐にして書き改めたことを給事中に弾劾され、詔獄に下された。まもなく赦された。
- 詔によって四川・陝西の私茶を巡察し、金華知府に任じられた。
- 建文の初め、北平參議となった。燕王と語ったところ、論が明晰であったので大いに賞賛された。再び遷って御史大夫となった。
刃を懐にして成祖を刺そうとする
- 燕の軍が入ると、死んだ臣は非常に多かった。清はもともと密議に加わっており、しかも孝孺らと国に殉ずる約束をしていたが、ここに至って一人だけ闕に赴いて自ら帰順した。成祖はもとの官のままとし、しばらくは班列に身を置いて過ごした。
- ある日の早朝の朝会に、清は緋の衣を着て刃を懐にして入った。これより先、日者が「赤い異星が帝座を侵しており、事態は急である」と奏していたので、成祖はもとより清を疑っていた。
- 朝会になると清だけが緋を着ていたので、身体を捜させたところ、隠していた刃が見つかった。詰問すると、清は奮い立って「故君のために仇を報いようとしただけだ」と言った。
- 成祖は怒って磔にして殺し、一族を誅し、その郷里を籍没した。次々と関係者に及んだので「瓜蔓抄(瓜の蔓をたぐるような摘発)」と呼ばれ、村里は廃墟となった。
連楹(景清に附す)
- はじめ金川門が開かれたとき、御史の連楹が馬を止めて成祖を刺そうとして殺された。屍は立ったまま倒れなかった。楹は襄垣の人である。