明史卷一百四十一 列傳第二十九 練子寧

対策の直言と建文朝での重用

  • 練子寧は名を安といい、字で通っている。新淦の人。父の伯尚は詩に巧みで、洪武の初めに起居注となったが、直言のため外任に謫せられ、鎮安通判で終わった。
  • 子寧は英邁で群を抜いていた。洪武十八年(1385年)、貢士として廷試の対策で、天が生む人材には限りがあるのに、陛下はわずかな事で無限の誅殺を加えるに忍びるのか、それでどうして治めるのか、と力説した。太祖はその意を善しとし、一甲第二に抜擢し、翰林修撰に任じた。
  • 母の喪に服して古礼を力めて行い、喪が明けて復官し、工部侍郎まで遷った。
  • 建文の初め、方孝孺とともに信任され、吏部左侍郎に改められた。賢と不肖を進退させることを自らの任とし、建言するところが多かった。まもなく御史大夫を拝した。

李景隆の誅を請う

  • 燕の軍が起こり、李景隆が北征してたびたび敗れて召還されると、子寧は朝廷でその罪を数え上げ、誅殺を請うたが、聴かれなかった。
  • 憤激して叩頭し、大声で「陛下の事を壊したのはこの賊です。臣は執法の任にありながら朝廷のために売国の奸を除けません。死んでも罪は余ります。陛下が景隆を赦されても、臣は決して赦しません」と叫び、大いに哭して死を求めた。帝はそのために朝を取りやめた。
  • 宗人府經歴の宋徴と御史の葉希賢もいずれも上疏し、景隆は軍紀を失って師を喪い二心を抱いているから誅すべきだと言ったが、いずれも容れられなかった。

言路を守り、磔にされる

  • 燕の軍が淮を渡ると、靖江府長史の蕭用道と衡府紀善の周是修が上書して大計を論じ、政を執る者を名指しで批判した。書が廷臣の議に下されると、政を執る者は激昂して二人を罵った。
  • 子寧は「国事がここに至っても、なお言う者を容れられぬのか」と言った。罵っていた者は恥じて止めた。
  • 燕王が即位すると、子寧は縛られて連行された。言葉が不遜であったので磔にされて死に、その家は族滅され、姻戚はみな辺境に戍らされた。
  • 子寧の甥の大亨は嘉定知縣であったが、変を聞いて妻とともに劉家河に身を投げて死んだ。
  • 同郷の徐子權は進士から刑部主事となり、子寧の死を聞いて慟哭し、詩を賦して首を吊った。
  • 子寧は文章に巧みで、孝孺はその学の広さと文をたたえた。弘治年間に王佐がその遺文を刻んで『金川玉屑集』とした。提學副使の李夢陽は金川書院を建てて子寧を祀り、その堂を「浩然」と名づけた。

宋徴・葉希賢(練子寧に附す)

  • 宋徴は出自が明らかでない。かつて上疏して罪ある藩の属籍を削るよう請うた。燕の軍が入ると屈せず、妻子ともども死んだ。
  • 葉希賢は松陽の人。やはり奸党として殺された。一説には去って僧となり、雪菴和尚と号したという。