東角門の言と削藩の献策
- 黄子澄は名を湜といい、字で通っている。分宜の人。洪武十八年(1385年)の会試に第一で合格し、編修から修撰に進み、東宮の伴読となり、官を重ねて太常寺卿に至った。
- 惠帝が皇太孫であったころ、東角門に座って子澄に「諸王は尊属で重兵を擁し、不法が多い。どうしたものか」と言った。子澄は「諸王の護衛兵はやっと自らを守るに足るほどです。もし変があれば六師をもって臨めば、誰が支えられましょう。漢の七国は強くなかったわけではありませんが、ついに滅びました。大小強弱の勢いが違うだけでなく、順逆の理も違うのです」と答えた。太孫はその言を是とした。
- 即位すると、子澄に翰林學士を兼ねさせ、齊泰とともに国政に参与させ、「先生、昔の東角門の言を覚えているか」と言った。子澄は頓首して「忘れておりません」と答えた。
- 退いて泰と謀った。泰はまず燕を図ろうとしたが、子澄は「そうではない。周・齊・湘・代・岷の諸王は先帝の時から不法が多く、削るのに名分がある。いま罪を問うなら周から始めるべきだ。周王は燕の同母弟であり、周を削るのは燕の手足を切ることになる」と言った。
- 謀が定まって翌日、入って帝に申し上げた。ちょうど周王の橚が不法を働いていると言う者があり、李景隆に兵を率いて襲って捕らえさせた。供述は湘・代の諸府に及び、そこで橚と岷王の楩を庶人とし、代王の桂を大同に幽閉し、齊王の榑を京師に囚え、湘王の柏は焼身して死んだ。
燕王を襲う機を逸する
- 燕に周王の罪を議させると、燕王は上書して弁明し救おうとした。帝は書を見て心を動かされ、事はしばらく止めるべきだと言った。子澄と泰は争ったが決せず、退いて語り合い、「事勢がここまで来て、どうして決断せずにいられようか」と言った。
- 翌日また入って「いま憂うべきは燕王だけです。病と称しているのに乗じて襲うべきです」と言った。帝は「朕は即位して間もないのに諸王を続けて黜けた。そのうえ燕まで削れば、どうやって天下に釈明するのか」と躊躇した。子澄は「人に先んずれば人を制し、後れれば人に制されます」と答えた。帝は「燕王は智勇に富み用兵に巧みだ。病といっても急には図りにくかろう」と言い、取りやめた。
- そこで都督の宋忠に沿辺の官軍を調えて開平に屯させ、燕府の護衛の精鋭を選んで忠の麾下に属させ、護衛の胡騎指揮である古通らを京に召し入れて燕を弱めた。さらに北平の永清左右衛の官軍を調えて彰徳・順徳に分駐させ、都督の徐凱に臨清で兵を練らせ、耿瓛に山海關で兵を練らせ、北平を抑えさせた。いずれも泰と子澄の謀である。
- 当時、燕王は三人の子がいずれも京師にいることを憂え恐れ、病が重いと称して三子の帰還を乞うた。泰はこの機に彼らを押さえようとしたが、子澄は「帰してやって疑っていないと示すほうがよい。そうすれば襲って取れる」と言った。ついに帰された。
- まもなく燕の軍が起こった。王は泣いて将吏に誓い、「諸王を陥れたのは天子の意ではなく、奸臣の齊泰・黄子澄のしわざだ」と言った。
李景隆の推挙と敗戦
- はじめ帝は子澄と泰を信任して急に削藩に着手したが、二人はもと書生で、兵事は得意とするところではなかった。
- 耿炳文が敗れたとき、子澄は勝敗は常のことで憂うるに足りないと言い、曹國公の李景隆こそ大任に堪えると推薦した。帝はそこで景隆を炳文に代えたが、景隆はますます無能で、鄭村壩と白溝河で連敗し、軍需と兵馬数十万を失い、さらに濟南城下でも敗れた。
- 帝は急ぎ景隆を召し還したが赦して誅さなかった。子澄は慟哭してその罪を正すよう請うたが、帝は聴かなかった。子澄は胸を打って「大事は去った。景隆を推して国を誤った。万死しても罪を贖えぬ」と言った。
蘇州での挙兵と刑死
- 燕兵がしだいに南下すると、齊泰とともに外に謫せられたが、ひそかに募兵を命じられた。
- 子澄は身をやつして太湖から蘇州に至り、知府の姚善とともに義を唱えて勤王を図った。善は「子澄の才は難を防ぐに足ります。閑職に遠ざけて敵を喜ばせるべきではありません」と上言し、帝は再び子澄を召したが、着かぬうちに京城が陥落した。
- 姚善とともに海路で兵を乞おうとしたが、善が承知しなかったので、嘉興の楊任のもとへ赴いて挙事を謀った。人に告発されて二人とも捕らえられた。
- 子澄が到着すると成祖はみずから詰問した。子澄は抗弁して屈せず、磔にされて死んだ。一族は老幼を問わず斬られ、姻族はことごとく辺境に戍らされた。
- 一子が姓名を変えて田經と名乗り、赦に遇って湖廣の咸寧に住んだ。正徳年間の進士である黄表がその後裔であるという。
- 楊任は洪武年間に人材として身を起こし、袁州知府を歴任した。当時は致仕していたが、子澄を家にかくまい、やはり磔にされて死んだ。二子の禮と益はともに斬られ、親族は辺境に戍らされた。