明史卷一百四十一 列傳第二十九 齊泰

篇首の立伝者と附伝の一覧

  • 本篇に立てられた伝と、その下に附された人物は次のとおり(底本の篇首の目録による)。
  • 齊泰
  • 黄子澄
  • 方孝孺(附:盧原質・鄭公智・林嘉猷・胡子昭・鄭居貞・劉政・方法・樓璉)
  • 練子寧(附:宋徴・葉希賢)
  • 茅大芳(附:周璿)
  • 卓敬(附:郭任・盧迥)
  • 陳迪(附:黄魁・巨敬)
  • 景清(附:連楹)
  • 胡閏(附:高翔)
  • 王度(附:戴徳彝・謝昇・丁志方・甘霖・董鏞・陳繼之・韓永・葉福)

太祖の信任を得るまで

  • 齊泰は溧水の人。もとの名は徳という。洪武十七年(1384年)に應天の郷試に第一で合格し、翌年に進士となり、禮部・兵部の主事を歴任した。
  • 雷が謹身殿に落ち、太祖が郊廟で祈るにあたり、在官九年で過失のない者を選んで陪祀させたところ、徳がこれに入り、「泰」の名を賜った。
  • 洪武二十八年(1395年)、兵部郎中から左侍郎に抜擢された。
  • 太祖がかつて辺境の将の姓名を問うと、泰は一人残らず数え上げた。諸々の図籍について問うと、袖から手控えを出して差し出した。簡潔で要を得ており詳密であったので、太祖は大いに感心した。

削藩の議と靖難の始まり

  • 皇太孫はもとから泰を重んじており、即位すると黄子澄とともに国政に参与させ、まもなく尚書に進めた。
  • 当時、遺詔で、諸王は国内にあって奔喪してはならず、王国の吏民は朝廷の統制に従うこととされた。諸王は、泰が父帝の詔を偽って骨肉を離間したのだと言い、皆が不満を抱いた。
  • これより先、帝が太孫であったころから、諸王の多くが尊属で重兵を擁していることを憂えていた。ここに至ってひそかに削藩を議した。
  • 建文元年(1399年)、周・代・湘・齊・岷の五王が相次いで罪により廃された。七月、燕王が兵を挙げて叛き、軍を「靖難」と称して、泰と子澄を奸臣と名指しした。
  • 事が聞こえると、泰は燕王の属籍を削り、罪を鳴らして討つことを請うた。難色を示す者があったが、泰は「賊であることを明らかにして敵としてこそ克てるのだ」と言った。そこで燕を伐つ議が定まり、天下に布告された。
  • 当時、太祖の功臣で生き残っている者はきわめて少なかったので、長興侯の耿炳文を大將軍として師を率いさせ、道を分けて北伐させたが、真定で燕に敗れた。

李景隆の起用をめぐる対立

  • 子澄が曹國公の李景隆を代将に推すと、泰は不可であることを極言したが、子澄は聴かず、ついに景隆を将とした。
  • このとき帝は五十万の兵を挙げて景隆に委ね、燕はたちどころに滅ぼせると考えた。燕王はかえって大いに喜び、「昔、漢の高祖でさえ十万を将いるのが限度だった。景隆に何の才があろう。その衆はちょうど我が資となる」と言った。
  • その冬、はたして景隆は敗れ、帝は恐れの色を見せた。ちょうど燕王が上書して泰と子澄を激しくそしったので、帝は二人の任を解いて燕に謝したが、ひそかに京師にとどめてなお機密の議に参与させた。
  • 景隆が燕王に書を送り、二人はすでに追放されたから兵をやめるよう告げたが、燕王は聴かなかった。
  • 翌年、盛庸が東昌で勝つと、帝は廟に告げて二人を旧職に復させた。夾河で敗れると再び二人の官を解いて罷兵を求めたが、燕王は「これは我をゆるめようとするものだ」と言い、進撃をいっそう急にした。
  • はじめ削藩の議が起こったとき、帝は泰と子澄の言を容れて、天下をもって一隅を制するのは容易であると考えていた。しかしたびたび敗れると内心悔い、そのため進退の拠りどころを失った。

捕らえられて死ぬ

  • 燕兵が日に日に迫ると、あらためて泰を召し戻したが、京師に着かぬうちにすでに都は守りきれなかった。泰は外の郡へ走って再興を図った。
  • 当時、泰の捕縛に高い賞金がかかっていた。泰は白馬を墨で染めて走ったが、いくらか走ると汗が出て墨が落ちた。「これは齊尚書の馬だ」と言う者があり、ついに捕らえられて京へ送られた。子澄・方孝孺とともに屈せず死んだ。
  • 泰の従兄弟の敬宗らはみな死に、叔父の時永・彦らは戍に謫せられた。子はわずか六歳で、死を免れて配所に給された。仁宗の時に赦されて還った。