龍陽の民のために死ぬ
- 青文勝は字を質夫といい、夔州の人。仕えて龍陽の典史となった。
- 龍陽は洞庭に臨み、毎年水害に遭って賦の滞納が数十万に及び、笞打たれて死ぬ者が続いた。
- 文勝は憤然として朝廷に赴き、疏を上って民のために命を請うた。二度上ったがいずれも返答がなかった。
- 「どの顔をして帰って父老に会えようか」と嘆じ、あらためて疏を作り、登聞鼓を打って差し出し、そのまま鼓の下で首を吊って死んだ。
- 帝はこれを聞いて大いに驚き、民のために身を捨てたことを憐れみ、詔して龍陽の租二万四千余石を減じ、これを定額とした。邑の人は祠を建てて祀った。妻子は貧しくて帰れなかったので、公田百畝を与えて養わせた。
- 萬曆十四年(1586年)、有司に命じて春秋に祭を行わせ、その祠を「惠烈」と名づけた。
史論
- 賛にいう。太祖は民間から身を起こし、汚吏が民の害となることをよく知っていたので、これを極刑に処したことがある。しかしそのつど賢能の者を旌表・登用して励ましを示し、法だけに頼ったのではない。
- かつて行人を遣わし、敕とあわせて鈔三十錠と内酒一尊を平陽知縣の張礎に賜った。
- また建陽知縣の郭伯泰と丞の陸鎰が権勢を恐れず政を行ったので、使者を遣わして酒醴を賜って労い、その官を進めた。
- 丹徒知縣の胡夢通、丞の郭伯高、金壇丞の李思進が事に坐して逮えられるべきところ、民が朝廷に赴いて善政が多いと訴えたので、帝はいずれにも内酒を賜り、敕を下して褒め労った。
- 永州守の余彦誠、齊東令の鄭敏ら十人が事に坐して獄に下されたとき、管下の民が政績を列挙して願い出たので、いずれも官に復した。宜春令の沈昌ら四人はさらに郡守に抜擢された。
- 下級の官から順を追わずに登用された者としては、寧遠尉の王尚賢が廣西參政に、祥符丞の鄒俊が大理卿に、靜寧州判の元善が僉都御史に、芝陽令の李行素が刑部侍郎になった。
- 一方、懷寧丞の陳希文と宜興簿の王復春のように、先に善政によって抜擢されながら、その貪欲・放縦が知られるやただちに重罰に処された者もある。励まし奮い立たせるやり方はきわめて行き届いていた。それゆえ当時の吏治には記すに足るものが多かったという。