明史卷一百四十 列傳第二十八 王宗顯

婺州の攻略と寧越知府

  • 王宗顯は和州の人で、嚴州に仮寓していた。胡大海が嚴州を落とすと礼をもって幕中に迎えた。
  • 太祖が婺州を攻めたとき、大海は宗顯を引き合わせた。太祖は「同郷の者だ」と言い、婺州へ行って敵情を探らせた。宗顯はひそかに城中の虚実と諸将の長短を探り、戻って太祖に報告した。太祖は喜んで「私が婺州を得たら、そなたを知府にしよう」と言った。
  • まもなく元の樞密同僉である寧安慶が、守将の特穆爾甲思と二心を抱き、都事を城壁から吊り降ろして降伏を請い、東門を開いて兵を入れた。宗顯が探ったとおりであった。
  • 婺州を寧越府と改め、宗顯に知府の事を任せた。宗顯はもと儒者で、経史に広く通じていた。郡学を開き、葉儀・宋濂を招いて五経の師とし、戴良を學正、吳況・徐源らを訓導とした。戦乱が起こって以来、学校は久しく廃れていたが、ここに至ってはじめて読書の声が聞こえた。まもなく在官のまま没した。

王興宗(王宗顯に附す)

  • 太祖が婺州を下したとき、王興宗を金華知縣とした。興宗はもと隷属の身であったので、李善長と李文忠はいずれも不可とした。太祖は「興宗は私に従って久しく、勤勉・廉潔で決断力がある。儒生や法吏も及ばない」と言った。
  • 三年在任して、はたして治績が聞こえ、南昌の判官に遷り、高州知に改められた。
  • 当時、民を軍籍に編入しようとしていたので、興宗は「元末は民を集めて兵とし、解散すれば民に戻りました。いまは軍と民が分かれています。もし軍籍に入れてしまえば民がいなくなり、どこから賦を徴するのですか」と奏した。帝は「もっともだ」と言った。
  • 懷慶知府に遷った。会計報告のため京に上ると、帝は各郡の守に事を問い質したが、興宗に至ると「この守は公正勤勉で貪らぬ。問うまでもない」と言った。
  • 再び遷って蘇州に赴き、河南布政使に抜擢された。参内して辞去するとき、帝は「久しく会わぬうちに老いたな。私の鬚も白くなった」と言い、宴を賜って送り出した。いっそう職務に励んだ。
  • のちに累に坐したが、潔白が明らかになり、在官のまま没した。

呂文燧(王宗顯に附す)

  • 同じころ呂文燧という者があった。字は用明、永康の人。
  • 元末に盗賊が起こると、家財を投じて壮士を募り三千人を得て、賊と連戦して破り走らせた。三度官を授けられたがいずれも受けなかった。
  • 太祖が婺州を定めて永康翼を置くと、文燧を左副元帥として知縣の事を兼ねさせた。まもなく召されて營田司經歴となり、廬州知府に抜擢された。浙西が平定されると嘉興知に移った。
  • 松江の民が乱を起こして嘉興に攻め寄せると、文燧は役所の内に柵を築き、壮士を率いて守り抜いた。李文忠の援軍が到着して賊は捕らえられた。諸将は城を屠ろうとしたが、文燧は「乱を起こしたのは賊であって民に何の罪があろう」と言い、力を尽くしてこれを止めた。
  • 三年の任期を満たして入朝し、詔を奉じて節を持ち闍婆国を諭す使いに立ったが、興化に至って病没した。
  • 翌年、嘉興の次官以下が塩法に坐して死んだ者が数十人に及んだ。有司は文燧がかつて公文書に署名していたとして、その家産の没収を請うた。帝は「文燧は誠実で信があり、決して不正な利を得はしまい。しかも職に殉じて死んだのだから思いやるべきである」と言い、没収させなかった。

王興福(王宗顯に附す)

  • 当時、郡守で治績を称された者にはさらに王興福と蘇恭讓の二人があった。
  • 興福は隨の人。はじめ徽州を守って善政があり、杭州に遷った。杭州は帰属したばかりで人心が落ち着いていなかったが、興福はよく撫し集め、民はたいそう徳とした。
  • 任期を満たして遷るべきとき、郡の人々が道を塞いですがりついて引き留めた。興福は諭して帰らせ、「私が恵んだのではない。父老がよく法を守ったのだ」と言った。
  • 太祖はこれを嘉して吏部尚書に抜擢したが、事に坐して西安知府に左遷され、在官のまま没した。

蘇恭讓・趙庭蘭(王宗顯に附す)

  • 恭讓は玉田の人。聡明正直として挙げられ、漢陽知府に任じられた。統治は厳明でありながら苛酷でなく、重い徭役があるたびに上官のもとへ出向いて繰り返し説き、多くを軽減させた。
  • 漢陽知縣であった趙庭蘭は徐の人で、これもよく民を愛し事に当たった。朝廷がかつて使者を遣わして陳氏の散った兵卒を徴発したとき、他県の多くは民の丁で充てたが、庭蘭だけは「県にはおりません」と申し立てた。
  • 漢陽の人は、郡守といえば恭讓を、県令といえば庭蘭を称したという。