明史卷一百四十 列傳第二十八 劉仕貆

出自と賢良の挙

  • 劉仕貆は字を伯貞といい、安福の人。父の閈は元末に隠棲して仕えなかった。仕貆は若くして父の学を受けた。
  • 紅巾の賊が乱を起こして郷里を掠めたとき、母の張氏は婦女たちを率いて茨潭に身を投げて死んだ。賊は仕貆に械をはめたが、久しくして釈された。
  • 洪武の初め、賦役に就いていて安福丞の張禧に辱められ、仕貆は憤って学問にいっそう励んだ。
  • 洪武十五年(1382年)、賢良の挙に応じ、対策が旨にかなって廣東按察司僉事に任じられ、瓊州に分司した。

瓊州での廉直

  • 瓊州の風俗では蠱を用いる者が多く、上官が着任すると土地の産する珍貨を贈り物として届け、受け取れば喜び、受け取らないと恐れて、ひそかに蠱で殺した。瓊州に仕えた者は多くこれに汚された。
  • 仕貆は廉潔で恵み深く、徭役を軽くし冤罪を正したので、大いに民心を得た。贈り物を返しても、夷人は害する気になれなかった。
  • かつて仕貆を辱めた張禧が、たまたま瓊山丞に転じてきて、属吏として拝謁することになり、大いに恥じ恐れた。仕貆は他の吏と変わりなく遇した。
  • まもなく朝議で僉事の官が省かれ、例によって東莞河泊使に降された。河を渡るとき風に遭い、水に没して死んだ。同僚の張仕祥が鴉磯に葬った。

王溥(劉仕貆に附す)

  • のちに王溥という者があった。桂林の人で、洪武の末に廣東參政となり、やはり廉潔で知られた。
  • 弟が実家から訪ねてきたとき、同船した属吏が布の袍を贈った。溥はこれを返させ、「一着の衣は些細でも慎まぬわけにいかぬ。これが行いを汚し身を辱める始まりだ」と言った。
  • 糧の輸送は海路によっていたので漂没が多かった。溥は庾嶺に赴いて地形を検討し、有司に命じて石を削り堀を埋め、橋梁を修理して車による輸送に改めた。民は大いに便利とした。
  • 在官数年、行李に着替えの衣もなく、台所に二品の菜もなかった。誣告されて詔獄に下されたとき、僚属が餞別を贈ったがいずれも受けず、「私がどうして患難のために心を変えようか」と言った。事が明らかになって帰郷を得て没した。

徐均(劉仕貆に附す)

  • 当時、徐均という者があり、陽春の主簿であった。土地が辺鄙なため土豪が根を張って不正を働き、県の長官が着任するたびに厚い賄賂を贈って牛耳っていた。
  • 均が着任すると、吏は「莫大老のところへ挨拶に行かれるべきです」と申し出た。莫大老とは洞主である。均は「この者も王の民ではないか。来なければ誅する」と言い、双剣を出して示した。大老は恐れて出頭した。
  • 均はその不法の事実を調べ上げて獄につないだ。翌朝、瓜二個と安石榴数個が贈られてきた。いずれも黄金と美しい真珠であった。均は目もくれず、械をはめて府へ送った。ところが府の官は賄賂を受けて釈放して帰した。
  • 大老が再び先と同じ贈り物を届けてきたので、均は怒って捕らえて処断しようとしたが、府の檄によって陽江の職務を代行することになった。陽江はよく治まった。喪に服して官を去った。