監察御史から福建按察使へ
- 陶垕仲は名を鑄といい、字で通っている。鄞の人。
- 洪武十六年(1383年)、國子生から監察御史に抜擢された。糾弾にあたって権貴を避けず、刑部尚書の䦕濟を弾劾して死に至らせ、剛直の名は天下に響いた。
- まもなく福建按察使に抜擢され、贓吏数十人を誅し、学を興して士を励まし、軍民を撫恤した。帝は詔を下して特に褒めた。
- 布政使の薛大方は貪欲で暴虐であったので、垕仲はこれを弾劾した。大方の弁明が垕仲にも及んだため、両者とも京に逮えられて取り調べられ、事実として大方が罪に問われ、詔によって垕仲は官に復した。
父母の迎養と最期
- 垕仲は「臣の父は昔、方氏の部曲であったため、旧官の例に従って鳳陽に移されました。臣は幼弱で兄に養われて成人しました。いま兄もまた鳳陽の軍吏です。臣は聖恩をこうむって司憲の位を汚しております。禄をもって養い、生み育てられた恩に報い、父母兄弟が再び集まって暮らせるようにしたいと願います。それこそ聖天子が孝をもって天下を治められる御心を戴くことです」と申し上げた。帝は特に迎え取って養うことを許し、移住の籍を除いた。
- 垕仲は清廉潔白で身を持し、俸禄の収入はことごとく賓客の饗応に充てた。まもなく在官のまま没した。
王佑(陶垕仲に附す)
- 当時、廣西僉事の王佑は泰和の人であった。按察使の尋适が政の要諦を尋ねたとき、佑は「蛮方の人は人倫を汚し教化を損なっている。いまのうちに礼法を明らかにして勧懲を示さねば、後に治めにくくなる」と答えた。适がこれに従い、廣西はよく治まったと称された。
- 蜀が平定されると、佑は重慶州知に移り、民を招き集めて撫し、民心をよく得た。事に坐して免官となり、没した。