明史卷一百三十九 列傳第二十七 李仕魯

朱子学者としての起用

  • 李仕魯は字を宗孔といい、濮の人。若くして聡敏で学問に篤く、三年のあいだ戸外をのぞかなかった。鄱陽の朱公遷が宋の朱熹の学統を伝えていると聞いて赴き従い、その学をことごとく受けた。
  • 太祖はもとから仕魯の名を知っていた。洪武年間に朱子の学を修めた者を求める詔が下り、有司が仕魯を推挙した。入見すると太祖は喜んで「そなたを求めて久しい。なぜ会うのがこれほど遅れたのか」と言った。
  • 黄州同知に任じ、「朕はまず民政でそなたを試す。追って召そう」と言った。一年で治績が聞こえた。
  • 洪武十四年(1381年)、大理寺卿に任じられた。

仏教崇信への抗議と死

  • 帝は即位以来かなり仏教を好み、東南の戒徳ある僧を詔で招き、たびたび蔣山で法会を開いた。応対が旨にかなう者には金襴の袈裟を賜り、禁中に召して座を与えて論じ合った。呉印・華克勤らはみな高官に抜擢され、しばしば帝の耳目を託された。
  • そのため僧徒の横暴は甚だしく、大臣を讒言して謗ったが、朝廷を挙げて誰も口に出せなかった。ただ仕魯と給事中の陳汶輝だけが相次いで争った。
  • 汶輝は上疏し、古の帝王以来、縉紳と僧侶が入り交じって同じ事にあたって助け合えたという話は聞かない、いま勲旧の年長者が皆こぞって禄を辞し位を去ろうと思っているのに、僧侶や邪佞の者がいっそう讒言で離間している、劉基や徐達が猜疑され、李善長や周徳興が謗られたのは、蕭何や韓信の危うさとどれほどの違いがあろうか、と述べ、股肱・心膂の任には徳行と文章に優れた者をすべて用いられるよう願った。帝は聴かなかった。
  • 寵を恃んだ僧たちは、そこで仏教のために職官を設けることを請うた。かねて置かれていた善世院を僧録司とし、左右善世・左右闡教・左右講經・覺義などの官を設け、いずれも品秩を高くした。道教も同様とした。得度した僧尼・道士は数万を超えた。
  • 仕魯は上疏し、陛下はいま創業の途上にあり、意向を示せばそのまま子孫万世の法則となるのに、なぜ聖学を捨てて異端を崇めるのかと述べた。数十度上ったが、やはり聴かれなかった。
  • 仕魯は性格が剛直で潔く、儒学から身を起こし、朱子の学を明らかにして仏教を排することを自らの任としていた。言が用いられぬと知るや、帝の前で「陛下は深くその教えに溺れておられる。臣の言が容れられぬのも当然です。陛下に笏をお返しし、骸骨を賜って郷里に帰ることを願います」と請い、笏を地に置いた。帝は大いに怒り、武士に命じて捕らえ打たせ、階下でたちどころに死んだ。

陳汶輝(李仕魯に附す)

  • 陳汶輝は字を耿光といい、詔安の人。推薦されて禮科給事中に任じられ、官を重ねて大理寺少卿に至った。しばしば得失を述べ、いずれも痛切で率直であった。
  • 最後に旨に逆らい、罪を恐れて金水橋の下に身を投げて死んだ。
  • 仕魯と汶輝が死んで数年後、帝はしだいに僧たちの行いに不法が多いことを知り、詔して釈・道の二教を整理させたという。