明史卷一百三十九 列傳第二十七 茹太素

監察御史から刑部侍郎へ

  • 茹太素は澤州の人。洪武三年(1370年)に郷試に挙げられ、上書が旨にかなって監察御史に任じられた。
  • 洪武六年(1373年)に四川按察使に抜擢され、公平をもって称された。
  • 洪武七年(1374年)五月、刑部侍郎に召された。中書省から内外の百司までは御史・按察使の検挙を受けるのに御史台には定まった考課がないので、守院御史にも同様に査察させるべきこと、磨勘司の官吏が少なく天下の銭糧を検覈しきれないので何名か増置して科を分けること、外の省・衛では会議のたびに民政の議が食い違って遅滞するので按察司から一員を出して糾正させることを上言し、帝はいずれも従った。

万言の上書と杖

  • 翌年、累に坐して刑部主事に降された。時務を陳べた上書は万言に及んだ。
  • 太祖は中書郎の王敏に読ませて聴いたが、その中に、才能ある士でここ数年生き残った者は百に一つ二つもなく、いま任に当たっているのは大方が迂遠な儒者と俗吏だという語があり、多く帝の意に触れた。帝は怒って太素を召して面詰し、朝廷で杖を加えた。
  • 翌晩、あらためて宮中で人に読ませたところ、実行できる事柄が四つ得られた。帝は感慨をもって「君たるは難く臣たるも易くない。朕が直言を求めるのは実情に即した言を得たいからだ。文辞が多すぎては耳を眩ますだけだ。太素の述べたことは五百余言で足りる」と言った。
  • そこで中書に奏対の様式を定めさせ、得失を陳べる者に冗長な文を用いさせないようにした。太素の疏のうち実行できる部分を抜き出して担当官に下し、帝みずから序を巻頭に付して内外に頒示した。

戸部尚書としての最期

  • 洪武十年(1377年)、同僚の曽秉正と前後して參政として出、太素は浙江へ赴いた。まもなく親に仕えるためとして帰郷を賜った。
  • 洪武十六年(1383年)に刑部試郎中に召され、一か月で都察院僉都御史に遷り、さらに翰林院検討に降された。
  • 洪武十八年(1385年)九月、戸部尚書に抜擢された。太素は剛直で屈せず、たびたび罪に瀕したが、帝はそのたびに赦した。
  • ある日、便殿の宴で酒を賜り、帝が「金の盃で汝と飲むが、白刃は容赦せぬ」と詠むと、太素は叩頭してただちに□(底本欠字)して「丹誠は国に報いんと図り、聖心の焦がるるを避けず」と答えた。帝はこれに心を動かされた。
  • まもなく御史に謫せられ、さらに詹徽を陥れたとして同僚十二人とともに足に鐐をはめられたまま政務にあたらされ、のちついに法に坐して死んだ。

曽秉正(茹太素に附す)

  • 曽秉正は南昌の人。洪武の初め、推薦されて海州學正に任じられた。
  • 洪武九年(1376年)、天変によって群臣に意見を述べさせる詔があると、秉正は数千言の疏を上った。その大要は次のとおり。
  • 古の聖君は天に災異のないことを喜びとせず、ただ天の譴めを畏れることを心とした。
  • 陛下は聖文神武で天下を統一され、天から与えられたものは盛大というべきである。兵乱は二十余年続いてようやく休息を得た。天が太平を心にかけて久しく、民が治を思う心も切実である。
  • 創業と守成の政治はおおむね異なる。開創の初めには富国強兵の術を行い、事に走り功を立てる人を用いる。しかし大統がすでに立ち国勢が固まれば、天下の水土が生ずるもの、人力が成すものはみな国家の倉庫の蓄えであり、乳飲み子から白髪の老人まですべて国家が養う人である。富み栄えぬ心配はなく、ただ成った業を永く保つことこそが難しい。
  • この時にあたっては、これまでの行い方を改めるべきである。何が天心にかない、何が民の望みを慰めるかを考えれば、感応の理は効き目がきわめて速い。
  • また、天がすでに警告した以上、異変が理由なく生ずるはずはないとして、『易』と『春秋』の趣旨を極論した。
  • 帝はこれを嘉し、召して思文監丞とした。まもなく刑部主事に改められ、洪武十年(1377年)に陝西參政に抜擢された。
  • ちょうど通政司が初めて置かれると、秉正をその使に充てた。在職中しばしば意見を述べ、帝はかなり寛容に遇したが、まもなく旨に逆らって罷免された。貧しくて帰郷できず、四歳の娘を売った。帝はこれを聞いて大いに怒り、腐刑に処した。その後の消息は分からない。