明史卷一百三十九 列傳第二十七 葉伯巨
葉伯巨は字を居升といい、寧海の人。経術に通じ、國子生から平遥訓導となった。洪武九年の星変に際して直言を求める詔に応じ、当時の政に「太過」なるものが三つあるとして、分封の過度・刑罰の繁多・治を求める急とを論じた上書で知られる。とくに諸王の分封が制を超えれば漢の七国や晉の諸王のような禍を招くと説いたため、太祖の激怒を買い、捕らえられて刑部の獄に下され、獄中で死んだ。洪武末年に燕王が勢いを増し、削奪を理由に兵を挙げて天下を取るに至ると、人々は伯巨に先見の明があったと称した。
星変の詔に応じて上書する
- 葉伯巨は字を居升といい、寧海の人。経術に通じ、國子生から平遥訓導に任じられた。
- 洪武九年(1376年)、星の異変があり、直言を求める詔が下った。伯巨が上った書は、いまの政に「太過」なるものが三つあるという趣旨で、分封が過度に手厚いこと、刑の適用が過度に繁いこと、治を求めるのが過度に急なことを挙げた。
分封が過度であること
- 先王の制では、大都でも国の三分の一を超えず、上下の等差にそれぞれ定まった分があった。幹を強くし枝を弱くして乱の源を塞ぎ、治の本を尊ぶためである。
- いま土地を裂いて分封し、諸王にそれぞれ領地を与えているのは、宋・元が宗室を孤立させて振るわなかった弊を戒めたためであろう。しかし秦・晉・燕・齊・梁・楚・呉・蜀の諸国はいずれも数十の邑を連ね、城郭と宮室は天子の都に次ぎ、甲兵と衛士の盛んなことも手厚い。数世の後には尾が大きすぎて振れなくなるだろう。そのうえで領地を削り権を奪えば必ず不満が生じ、甚だしくは隙に乗じて事を起こし、防ごうにも間に合わない。
- 「諸王はみな天子の骨肉であり、領地が広く法が手厚くても対抗するはずがない」と言う者がいるが、そうではない。漢と晉の事跡を見よ。孝景帝は高帝の孫であり、七国の諸王はみな景帝と祖父を同じくする兄弟・子孫であったが、ひとたび領地を削られるとたちまち兵を構えて西に向かった。晉の諸王もみな武帝の実の子孫であったが、代が替わると互いに攻め合い、ついに劉聰・石勒の禍を招いた。分封が制を超えれば禍はたちどころに生ずる。
- 昔、賈誼は漢の文帝に諸国の地をすべて分割し空けておいて諸王の子孫を待つよう勧めた。文帝が早くその言に従っていれば七国の禍はなかったはずである。諸王が封国に赴く前に、都邑の制を節し、衛兵を減らし、疆域を限り、あわせて諸王の子孫の封を待つべきである。
- この制がひとたび定まれば、諸王のうち賢才ある者は入って輔相となり、それ以外は代々藩屏となって国と休戚をともにできる。一時の恩を割いて万世の利を制し、天変を消して社稷を安んずる道として、これに勝るものはない。
刑罰が過度に繁いこと
- 歴代の開国の君で、徳を用いて民心を結びつけずに済んだ者はなく、刑を用いて民心を失わなかった者もない。国の命脈の長短はすべてここから来る。
- 古の人が死刑を裁くときは、天子は音楽をやめ食事を減らした。天が民を生み牧者を立てたのは共に生きさせるためで、死なせるためではない。やむを得ず教えに従わぬ者があってはじめて刑を加えるにすぎない。
- 「宋・元の中葉は姑息に流れ賞罰に筋がなく滅亡を招いた。主上はその弊を痛切に懲らしめ、赦さぬ刑を制し、神のごとく変ずる法を用いて、人に恐れを知らせ端緒を測らせないのだ」と言う者がある。これもそうではない。基を開く君は百世に規範を垂れるのだから、一挙一動が子孫の拠りどころとならねばならぬ。まして刑は民の命を左右するものであり、慎まずにおられようか。
- 笞・杖・徒・流・死が今の五刑である。この五刑を用いて容赦しないのは、公正に一貫して行われるならよい。しかし刑を用いるにあたって多くは天子の胸中で裁かれるので、獄を治める吏はもっぱら意向を探り、峻厳な者ほど功が多く、平反した者が罪を得る。それでは獄の公正を求めても得られようはずがない。
- 近ごろ特旨で雑犯の死罪は死を免じて充軍とし、また旧律を刪定して減宥に差等を設けた。しかし獄を治める者に平恕に努めよと戒める条文があるとは聞かない。それゆえ法司はなお旧例を踏襲し、寛宥の名は聞こえても実は見えない。実を作るのはまことに主上にあって臣下にはない。罪が疑わしければ軽くするという心があってこそ、生を好む徳が民心に行き渡る。これは浅い覚悟で期待できることではない。
- なぜそう言えるか。古の士は仕官を栄誉とし罷免を恥とした。いまの士は跡を紛らし名を知られないことを福とし、傷を負って登用されないことを幸いとし、屯田・工役は必ず被る罰と考え、鞭や杖の打擲を日常の恥辱と考えている。
- はじめ朝廷は天下の士を網羅して漏れなく集め、有司は道に上らせるのに重罪人を捕らえるように急き立てた。京師に着いてから官を除するのは多く容貌によって選ばれ、学んだことが用いられず、用いられることが学んだことでない場合もある。官に就いてひとたび過ちを犯し、誅戮を免れたとしても必ず屯田・工役の科に落ちる。これが常態であって少しも顧みられない。これは陛下の好んでなさるところではあるまい。人に恐れさせて犯させまいとする心からであろう。
- しかしここ数年の誅殺は決して少なくないのに、犯す者は後を絶たない。それは励ましと戒めが明らかでなく善悪の区別が立たず、賢を議し能を議する法が廃されて、人が自ら励まず善をなす者が怠るからである。
- ここに、伯夷・叔齊のように廉潔で、張良・陳平のように智ある者があって、わずかに法に触れたとしよう。上は長所を採って短所を捨てて用いるか、それとも長所を捨てて短所を咎めて法に処すか。長所を採って短所を捨てれば、中庸の才も競って廉と智に励もう。短所を咎めて長所を捨てれば、善をなす者は皆「あれほど廉潔でもあれほど智があっても朝廷は少しも容赦しない。我らはどこに身を置けばよいのか」と言うだろう。
- そのために朝に夕を謀れず、廉恥を捨て、あるいは搾取して屯田・工役の費用に備える者ばかりになる。これこそ刑を用いることの煩わしさではないか。
- 漢はかつて大族を山陵に移したことはあるが、罪人を充てたとは聞かない。いま鳳陽は皇陵の地であり龍興の地であるのに、一律に罪人を住まわせている。怨嗟と愁苦の声が園邑に満ちるのは、宗廟を恭しく承ける趣旨ではあるまい。
- そもそも強敵が前にあるなら、精鋭を励まして攻めれば必ず克ち、必ず擒にできる。しかしいま賊は山谷に潜んでおり、計略をもって求めればあるいは得られようが、大軍を労すれば向こうは驚き散って跡を追えぬ地に入る。数年捕らえて方策もなく、そのあげく新たに戸籍に付いた小民に咎を帰して移住させ、数千里を騒がせ、家々は落ち着けず鶏犬も安らげない。
- まして新たに帰属した者は以前は他所へ流れ、朝廷が生業への復帰を許したのである。いま籍に付いた者をまた移すのでは、法が民に信じられなくなる。
- 戸口が盛んになってはじめて田野が開け賦税が増える。近ごろ守令に年々戸口を増やすよう求めているのもそのためである。ところが、すでに税糧を納めた家は旨を承けて解放され帰家してもなお心が安まらず、新たに戸口に立てられた者は憐憫を蒙りながらもなお開封に留め置かれて待たされ、流言に驚いて身の置きどころを知らない。まして太原の諸郡は外は辺境に接している。民心がこのようでは、辺境を安んずる策とはとうてい言えない。
- 願わくは今より朝廷は大体を保ち小過を赦し、天下に詔して八議の法を挙げ行い、峻厳な吏を厳しく禁じ、獄を平允に裁く者を昇進させ、残酷で搾取する者を罷免されたい。鳳陽の屯田の制は、現に屯にある者にはそのまま耕作させて課税し、すでに戸口に立てられて開封に留められている者はことごとく解いて生業に復させられたい。そうすれば生を好む徳を厚くし、国運を長くする福を樹て、万民は自ずと安んじ、天変も自ずと消えよう。
治を求めるのが過度に急なこと
- 昔、周は文王・武王から成王・康王に至って教化が大いに行われ、漢は高帝から文帝・景帝に至ってはじめて富み栄えたと称された。天下の治乱、気運の転移、人心の趨向は一朝一夕のものではない。
- いま国家は紀元して九年、兵を収めて民を休ませ、天下は大いに定まり、紀綱は正され法令は整った。治まったと言ってよい。それなのに陛下は民の風俗が薄いこと、人が恐れを知らず、法が出れば奸が生じ令が下れば詐が起こることを気にかけておられる。それゆえ朝に信じて暮に疑うことがあり、昨日昇進した者が今日は殺されることがあり、令が下ってすぐ改まり、赦しておいてまた収監することさえある。天下の臣民は従うべきところを知らない。
- 愚臣が思うに、天下が治に向かうのは堅い氷が解けるようなものである。氷が解けるのは太陽が急に至らせるのではなく、陽気が発して地脈がかすかに動いてはじめて融ける。聖人が天下を治めるのも同じで、刑で威し礼で導き、仁で民を潤し義で民を磨いて、はじめて教化が和やかに行き渡る。孔子が「王者があっても一世を経てはじめて仁が成る」と言ったのは空言ではない。
- 治を求める道は風俗を正すことに先んずるものはなく、風俗を正す道は守令が務めるべきところを知ることに先んずるものはない。守令に務めを知らせるには風憲が重んずるところを知ることに先んずるものはなく、風憲に重んずるところを知らせるには朝廷が尚ぶところを知ることに先んずるものはない。
- 古の郡守・県令は正しさで下を率い、善で民を導き、教化を成して風俗を美しくした。徴賦・期会・獄訟・簿書はもとより末である。いまの守令は戸口・銭糧・獄訟を急務とし、農桑・学校という王政の本を空文と見て放置している。それでどうして民を教え養えようか。
- 農桑について言えば、春になると州県が一枚の白紙の帖を里甲に下し、里甲が文書で返答するだけで、守令が自ら作付けの次第を見たり、旱魃・水害への備えを講じたりすることはない。
- 学校について言えば、廩膳の諸生は国家が資を給して人材を得る場である。いま四方の師と生の欠員はきわめて多く、たとえ員数がそろっていても、守令が礼譲の実をもって器を成した者はまれである。
- 朝廷は社学に熱心で、たびたび師生の姓名と学習の課業を調べさせている。しかし社鎮や城郭ではただ門牌を立てるだけ、遠村や辺鄙な所ではその名が残るのみで、守令は文書を整えて監査に備えるだけである。上官が分担して巡視しても慣例をなぞり、紙の上で照合するだけで、実際に巡って点検することはない。興廃の実態は上下とも空文と見なされ、小民は孝弟忠信が何であるかを知らず、礼義廉恥は地に落ちている。
- 風紀を司る役所は、朝廷に代わって徳化を宣べ導き、善悪を調べる役目であって、訴訟を聴き獄を裁くのはその一事にすぎない。いま獄訟だけを要務とし、忠臣・孝子・義夫・節婦を末節と見て顧みる暇もない。宣導風化の任はどこにあるのか。
- 初めは一人の贓吏を除き一件の訴訟を裁くことを治と考え、民を勧めて風俗を成し、民を善に移し罪から遠ざけることこそ治の大なるものであると知らない。これが守令と風憲が軽重をわきまえない過ちである。
- 『王制』に、郷の秀士を論じて司徒に上せるのを「選士」、司徒がその秀士を論じて太学に上せるのを「俊士」、大楽正が造士の秀なる者を論じて司馬に上せるのを「進士」といい、司馬が官に堪える材かを弁じ論じ、定まってから官に就け、官に就けてから爵を与えるとある。その吟味の詳しさはこのようであった。だから周の世は人材が盛んであった。
- いま天下の諸生を礼部で考査して太学に上せ、諸々の職を経験させて事を任せるのは、歴代の選挙の陋習を洗い、上は周に法るものである。しかし太学に上った者が数か月もたたぬうちに選ばれて官に入り、時には民政を委ねられる。その人がまだ時務に通じず朝廷の礼法に習熟せず、徳化を宣べ導けず、上は国政を損ない下は民を苦しめるのではないかと恐れる。
- 開国以来、秀才の選挙は少なくなく、任じた地位も軽くない。いま数えてみて残っている者が幾人あるか。後の世が今を見るのも、今が昔を見るのと同じであろう。かつて挙げられ任じられた人々のことは、深く惜しむべきではないか。
- 以上がすべて、治を求めるのが急に過ぎる過ちであると臣の考えるところである。
- 昔、宋は天下を保つこと三百余年、初めに礼義で民を教え、盛んな時には巷にまで忠厚の気風があり、人の過失を口にすることさえ恥じた。末年に至って忠臣義士は死を帰するがごとくに見、婦人女子は汚辱を受けることを恥じた。これはみな教化の効である。
- 元が国を有ったときは本が立たず、礼義の分を犯し廉恥の防ぎを壊し、数十年もたたぬうちに城を捨てて敵に降る者が数えきれず、老儒や重臣までが甘んじて屈辱を受けた。これは礼義廉恥が振るわなかった弊であり、その遺風は今なお改まっていない。まことに怪しむべきである。
- 臣が思うに、仁義を敦くし廉恥を尚び、守令には農桑と学校を急務とすることを責め、風憲には教化を先にし法律を審らかにして獄を平らかにし刑を緩くすることを急務とすることを責めるにしくはない。そうすれば徳沢が下に流れ、治を求める道もほぼ得られよう。
- 郡邑の諸生で太学に上る者には、学に在って三年あるいは五年学業を修めさせ、一経に精通し一芸を兼ね習ってから選に入れ、宿衛あるいは実務に就けて公卿大夫の働きを観察させたうえで政を任せれば、学識ともに厚く、事を誤ることもなかろう。あわせて禄位はみな天の禄位であることを知らせ、身の程を超えた望みを塞ぐこともできる。
- 治道が得られたうえで陛下が端然と静かに構え、年月を待たれれば、陰陽は調い風雨は時にかない、諸々の福と吉祥がことごとく至るだろう。天変が消えぬはずがあろうか。
獄死と後世の評価
- 書が上ると帝は大いに怒って「この小僧、朕の骨肉を離間しようというのか。急ぎ捕らえて来い。朕みずから射殺してやる」と言った。到着したとき、丞相は帝の機嫌のよいのに乗じて上奏し、刑部の獄に下されて獄中で死んだ。
- これより先、伯巨は上書しようとして友人に「いま天下で憂うべきは三事だけだ。うち二事は見やすいが害が現れるのが遅く、一事は見えにくいが害が現れるのが速い。明詔がなくとも私は言うつもりだった。まして言を求められているのだから」と語っていた。その一事とは分封を指す。
- ただしこのころ諸王は藩の号を立てられただけで、まだ土地を裂かれてはおらず、すべてが伯巨の言うとおりではなかった。洪武の末年になって燕王がたびたび命を奉じて塞外に出て勢力が強まりはじめ、のちに削奪を理由に兵を挙げてついに天下を取るに至った。そこで人々は伯巨を先見の明があったと言うようになったという。