明史卷一百三十七 列傳第二十五 桂彦良

桂彦良は名を徳偁といい、字で通った。慈谿の人で、元の郷貢進士から平江路學の教授となったが罷めて帰り、張士誠・方國珍の招きにも応じなかった。明に召されて太子正字となり、朴直な物言いと古典に拠った進言で太祖に重んじられた。のち晉王府右傅、左長史を歴任し、格心圖を王に献じ、京師で太平十二策を上って「古に泥まず今に通ずる通儒」と評された。太祖は「江南の大儒は卿ひとり」と称し、宋濂・劉基よりも上に置いた。八十歳で休暇を願って帰郷し、二年後に卒した。

年表(6件)
  • 洪武六年1373年召されて公車に詣で太子正字を授けられる
  • 七年1374年冬至の南郊祀文の「予」「我」の用字を古例によって弁護し帝に容れられる
  • 建文二年1400年徐宗實が飛び越えて兵部右侍郎に抜擢される
  • 洪武三年1370年附伝の陳南賓が招かれて都に至り無棣丞に任じられる
  • 二十九年1396年陳南賓が方孝孺とともに四川の考試官となる
  • 天順四年1460年蕭用道の子の蕭晅が治績卓抜として挙げられ禮部尚書を拝する

太子正字としての率直

  • 桂彦良は名を徳偁といい、字で通った。慈谿の人。元の郷貢進士で平江路學の教授となったが、罷めて帰った。張士誠と方國珍がそろって招いたが就かなかった。
  • 洪武六年(1373年)、召されて公車に詣で、太子正字を授けられた。
  • 帝がかつて自作の詩文を出したとき、彦良は御座の前で朗誦し、その声は殿の外まで届いたので、左右は驚いた。帝はその朴直さを嘉した。
  • 当時、國子生の蔣學らを選んで給事中とし、挙人の張唯らを編修として文華堂で学ばせ、彦良および宋濂・孔克表をその師とした。くつろいだ折に諮問することがあったが、彦良の答えは必ず正しい道によった。帝はそのつど善しとして、その言葉を書いて便殿に掲げた。
  • 七年(1374年)の冬至、詞臣が南郊の祀文を撰んで「予」「我」の字を用いた。帝はこれを不敬と考えたが、彦良は「成湯が上帝を祭って『予小子履』と言い、武王が文王を祀った詩に『我将我享』とあります。古よりこの言い方があります」と言った。帝は顔色を和らげて「正字の言が正しい」と言った。
  • 当時、御史台が獄を整えて詞臣に再審させたが、彦良が論じて釈放された者は数十人であった。

晉王府右傅と太平十二策

  • 晉王府右傅に遷り、帝は自ら文を作って賜った。彦良が入って謝すると、帝は「江南の大儒は卿ひとりだ」と言った。「臣は宋濂・劉基に及びません」と答えると、帝は「濂は文人にすぎぬ。基は険しく偏狭で、卿に及ばない」と言った。
  • 彦良は晉に至って格心圖を作って王に献じた。のち王府の官制が改まって左長史となった。京師に上って太平十二策を上ったところ、帝は「彦良の述べるところは事の体に通じており、治道に益がある。世に儒者は古に泥んで今に通じないというが、彦良のような者こそ通儒と言える」と言った。
  • 八十歳で休暇を願って帰り、二年後に卒した。

李希顔――厳格な諸王の師

  • 明の初めはとくに師伝を重んじ、宋濂に太子を教えさせたうえ、諸王の傅もその選を慎んだ。彦良や陳南賓らはみな老練の儒生であり、なかでも李希顔と、駙馬都尉胡觀の傅である徐宗實は、とりわけ厳しさで恐れられた。
  • 李希顔は字を愚菴といい、郟の人。隠居して仕えなかったが、太祖が自ら書を送って召し、京に至って諸王の師となった。規範が厳しく、諸王で教えに従わない者があれば、その額を打つこともあった。
  • 帝はその額をなでて怒ったが、高皇后が「聖人の道でわが子を教えているのに、かえって怒るとはどういうことでしょう」と言ったので、太祖の気は解けた。左春坊左贊善を授けられた。
  • 諸王が藩に赴くと、希顔はもとの隠棲に帰った。里の宴会にはいつも緋の袍を着て笠をかぶって行った。客が理由を問うと、笑って「笠は本来の姿、緋は君の賜物だ」と言った。

徐宗實――駙馬の師としての席次

  • 徐宗實は名を垕といい、字で通った。黄巖の人。若くして聡明で学に篤かった。
  • 洪武年間に推薦されて銅陵の主簿に任じられたが、休暇を請うて親を迎え養おうとして帝の意に逆らい、淮陰駅に流された。
  • ちょうど東川侯胡海の子である胡觀が公主を娶ることになり、帝が觀のために師を選んだが適任者が難しく、宗實に命じた。宦官の使いが他の府の例にならって駙馬の席を中堂に南向きに置き、師の席を西の階の上に東向きに設けた。宗實は自ら駙馬の席を引いて下ろさせ、そのうえで書を講じた。左右は大いに驚いて目を見交わした。帝はこれを聞いて嘉し、宗實を召してたびたびねぎらった。
  • 洪武の末、蘇州通判を授けられた。官の粟二十万石を出すことを奏して飢えた民を活かした。春の水が急に堤を削ったとき、修築を議して呉の人はみな便利とした。
  • 元の節婦である王氏の旌表を請うたとき、禮部は前朝の事だから認めるべきでないとしたが、宗實は「武王が比干の墓を封じたのは、前朝の事ではないのか」と言い、旌表を得た。
  • 建文二年(1400年)、飛び越えて兵部右侍郎に抜擢されたが、事に連座して官を貶され、まもなく職に復した。燕の事態が急を告げると、使いとして両浙で義勇を募った。成祖が即位すると疏を上げて帰郷を願った。二年余りののち事によって捕らえられ、途上で卒した。

陳南賓――洪範九疇の講義

  • 陳南賓は名を光裕といい、字で通った。茶陵の人。元末に全州學正となった。
  • 洪武三年(1370年)、招かれて都に至り、無棣丞に任じられ、膠州同知を歴任し、赴任先ではどこでも経術によって治めた。召されて國子助教となった。
  • かつて入見して洪範九疇を講じたところ、帝は大いに喜び、その姓名を殿の柱に書いた。のちに帝が洪範に注をつけたとき、多くその説を採った。
  • 蜀府長史に抜擢された。蜀の獻王は学を好み、敬意と礼遇はとりわけ厚く、安車を作って賜り、邸を構えて安老堂と名づけた。
  • 二十九年(1396年)、方孝孺とともに四川の考試官となった。詩文は清く力強く法があった。卒したとき八十歳。

諸王府長史たち――劉淳・董子莊・楊黼・金實・蕭用道・宋子環

  • その後、諸王府の長史では劉淳・董子莊・趙季通・楊黼・金寶・蕭用道・宋子環の類がみな名を知られた。
  • 劉淳は南陽の人。洪武の末に原武訓導となり、周王が招いて世子の師とした。まもなく朝廷に申し出て右長史に補され、正しい道で王を補佐した。端禮門の槐が盛夏に枯れると、淳は災異の徴を述べて王を戒め、王がその言に従って身を修め省みると、枯れた枝がまた栄えた。王はその槐を旌して「攄忠」と名づけた。致仕して十余年で卒した。享年九十七。
  • 董子莊は名を琰といい、字で通った。江西樂安の人。学問と行いがあった。洪武年間に学官から茂名知縣に遷り、永樂の時、國子司業から趙王府右長史として出た。事に応じて正し、王に過ちが多いと帝はそのつど長史を責めたが、子莊は心を合わせて輔導した。藩府の賢い僚属といえば「趙の董」がまず挙げられたという。
  • 楊黼は吉水の人。御史となった。仁宗が即位すると疏を上げて十事を述べ、衛王府右長史に抜擢された。心を尽くして意見を献じ、いささかも金銭を受け取らなかった。宣徳の初めに卒した。
  • 金實は開化の人。永樂の初め、上書して治道を述べ、帝はこれを嘉した。あらためて策に対して上意にかない、翰林典籍に任じられて太祖實録・永樂大典の編修に加わった。選ばれて東宮の講官となり、左春坊左司直を歴任した。仁宗が立つと衛府左長史に任じられた。正統の初めに卒した。人となりは孝友で信義に篤く、経史を読むのに日ごとの割り当てを定め、老いても休まなかった。
  • 蕭用道は泰和の人。建文年間に「懐才抱徳」に挙げられ、闕に詣でて文章を試され、靖江王府長史に抜擢された。翰林に召されて類要を編んだ。燕の軍が淮を渡ると、周是修とともに上書して当路者を指弾した。
  • 永樂の時、太祖實録の編修に加わり、右長史に改まって王に従って桂林の藩に赴いた。かつて王に八事を述べた。すなわち、起居を慎むこと、嗜欲を寡なくすること、学問に励むこと、徳性を養うこと、鞭打ちの刑を減らすこと、下の人の利を侵さないこと、つねに府の僚属と接して人々の実情に通じること、慎み深く篤実な人を選んで差遣に備えること、である。また端禮・體仁・遵義・廣智の四門の箴を作って王に献じた。
  • 久しくして病により帰郷を願ったが、成祖は怒って宣府の鷂兒嶺巡檢に貶し、そこで卒した。
  • 子の蕭晅は進士から湖廣左布政使となり、天順四年(1460年)に治績が卓抜として挙げられ、禮部尚書を拝した。はじめ両京の尚書が欠けると多くは布政使を充てたが、晅ののちは尚書を拝する者がなくなった。晅は重厚で廉潔・静穏であったが奏対が巧みでなく、南京に移されて卒した。
  • 宋子環は廬陵の人。庶吉士から考功郎中を歴任し、師逵に従って湖廣で材木を採り、寛厚さで人心を得た。仁宗が即位すると梁府右長史を授けられ、越府に改まった。穏やかで淡泊であり、赴任先では賢名があった。宣徳年間に在官のまま卒した。これ以後、王府の官は清流とされなくなり、記すに足る者がいなくなった。