明史卷一百三十七 列傳第二十五 吴沉

名の誤りを正す

  • 吴況は字を濬仲といい、蘭溪の人。元の國子博士である吳師道の子である。学問と行いで名を知られた。
  • 太祖が婺州を下すと、況および同郡の許元・葉瓚玉・胡翰・汪仲山・李公常・金信・徐孳・童冀・戴良・吳履・孫履・張起敬を召して省中で食を共にさせ、毎日二人ずつに経史を進講させた。まもなく沉に郡学の訓導を命じた。
  • 洪武の初め、郡が儒士として推挙したとき、誤ってその名を「信仲」として上申した。翰林院待制を授けられると、沉は修撰の王釐に「名の誤りを改めないのは欺くことだ。朝廷に申し出よう」と言った。釐は上の怒りに触れることを恐れると言ったが、沉は従わず、牒を出して改正を請うた。帝は喜んで「誠実な人だ」と言い、そこで厚遇して左右に侍らせた。事によって編修に降された。

東宮への称臣と精誠錄

  • 給事中の鄭相同が、故事では東宮に事を啓するとき、東宮の官属だけが臣と称し、朝臣はそうしない、いま一律に臣と称するのは礼として落ち着かない、と言った。
  • 沉はこれに反駁して「東宮は国の大本である。東宮を尊ぶのは主上を尊ぶゆえんだ。相同の言は正しくない」と言い、帝はこれに従った。
  • まもなく奏対が上意に外れて翰林院典籍に降され、のち東閣大學士に抜擢された。
  • はじめ帝は沉に「聖賢の立てた教えには三つある。天を敬うこと、君に忠なること、親に孝なることだ。それが経典の巻々に散らばっていて、要領をつかむのは容易でない。汝らはこの三事によって編輯せよ」と言っていた。ここに至って書が成り、精誠錄の名を賜って、沉に序を撰ばせた。
  • 一年在って翰林侍書に降され、國子博士に改まり、老齢により帰郷した。
  • 沉はかつて、孔子に王を封ずるのは礼に合わないと論じた。のち布政使の夏寅、祭酒の邱濬もみなその説を継いだ。嘉靖九年(1530年)に祀典を改定して至聖先師と改称したのは、実は沉に始まるものである。