明史卷一百三十六 列傳第二十四 樂韶鳳

兵部尚書と回鑾樂歌

  • 樂韶鳳は字を舜儀といい、全椒の人。博学で文章を能くした。和陽で太祖に謁し、渡江に従って軍事に参与した。
  • 洪武三年(1370年)、起居注を授けられ、たびたび遷って六年(1373年)、兵部尚書を拝した。中書省・御史台・都督府とともに軍士を教練する法を定めた。
  • 侍講學士に改まり、承旨の詹同とともに釈奠先師の楽章を正し、大明日暦を編集した。
  • 七年(1374年)、帝が祭祀からの還御に楽舞を先導に用いることとし、韶鳳らに詞を撰ばせた。そこで「神降祥」「神貺恵」「酣酒」「色荒」「禽荒」などの曲を撰んで進めた。全部で三十九章、名づけて回鑾樂歌といい、いずれも規諫の意を寓した。禮部が楽舞の図を作って上り、太常に習わせるよう命じた。

洪武正韻と晩年

  • 翌年、帝は旧来の韻が江左に出たもので正音を失っていることが多いとして、廷臣とともに中原の雅音を参考にして正させた。書が成り、洪武正韻と名づけた。
  • また陵寝の朔望の祭祀および登壇のとき舄を脱ぐ諸礼儀を考えさせたが、いずれも故実を詳しく調べたので、すべてこれに従った。
  • まもなく病により免ぜられ、ほどなく祭酒として再び起用された。詔を奉じて皇太子と諸王の往復の書簡の礼を定め、考拠が精詳で、たびたび褒答を受けた。
  • 十三年(1380年)に致仕して帰り、天寿を全うした。弟の樂暉・樂禮・樂毅はみな名を知られた。

史論

  • 賛に曰く。明初に礼を議したとき、宋濂はちょうど家に居たので、諸儀の多くは陶安が裁定した。大祀はもっぱら安の議により、その他は諸説を参酌してその長所に従った。
  • すなわち祫と禘は詹同、時享は朱升、釈奠と耕耤は錢用壬、五祀は崔亮、朝会は劉基、祝祭は魏觀、軍礼は陶凱による。いずれも経義を援用し、古を酌み今に準じて、盛んに一代の美しく明らかな治を成した。
  • 折衷と裁断は上の心から出たものではあるが、諸臣の功もまたどうして軽んじられようか。