明史卷一百三十六 列傳第二十四 李原名

辺境と外国への応対

  • 李原名は字を資善といい、安州の人。洪武十五年(1382年)、経に通じた儒士として挙げられ御史となった。十二年、平緬に使いして帰り、思倫發は詐りを抱いてうかがっているから辺境の備えを厳しくすべきこと、靖江王が大理の印で令を出しているのはいずれも法に反し、遠方の人に軽んじられることを述べ、上意にかなって禮部尚書に抜擢された。以後、遠方の事は多く原名に諮った。
  • 高麗が、遼東の文州・高州・和州・定州はみなその国の旧領であるとして、鐵嶺に屯戍を置くことを乞う奏をした。原名は、数州はみな元の版図に入って遼に属し、高麗の地は鴨綠江を境とする、いま鐵嶺にはすでに衛を置いたのだから重ねて陳請すべきでない、と述べた。帝はその国に、分を守って争いの種を生じないよう諭させた。
  • 安南が毎年方物を貢いだので、帝はその民を労することを思い、原名が帝の意を諭して三年に一度の貢とさせ、以後これが定制となった。
  • また帝の命によって養老の政を行い、府州県の歳貢の多寡の数を定め、官民の巾服の制を定めて、いずれも令とした。

歴代帝王廟の配享と諸礼の是正

  • はじめ達魯特與權の言によって歴代帝王廟を建てたが、ここに至って原名は風后・力牧ら三十六人を配して享けさせることを請うた。帝は趙普・安圖・阿珠を除いて、陳平・馮異・潘美・穆呼哩を加え、残りはすべて原名の奏のとおりとした。
  • 魯王の朱檀が薨じたとき、喪服の制を定めた。進士の王希曾が生母でない母(出母)の喪に服することを請うたが、原名は礼に合わないから禁ずべきだとした。
  • およそ郊祀・宗廟・社稷・嶽瀆の諸制は、前後の儒臣が論定したもので詳略があったが、帝はことごとく原名に正させた。
  • 礼の任にあたった諸臣のうち、原名だけが在任が長かった。二十三年(1390年)、老齢により致仕した。