明史卷一百三十七 列傳第二十五 劉三吾

篇首の立伝者一覧

  • 本篇の巻頭に掲げられた立伝者と附伝者は次のとおり。劉吾三(附・汪叡、朱善)、安然(附・王本ら)、吴伯宗(附・□恂、任亨泰)、吴沉、桂彦良(附・李希顔、徐宗實、陳南賓、劉淳、董子莊、趙李通、楊黼、金實ら)、宋訥(附・許存仁、張羙和、聶鉉、貝瓊)、趙俶(附・錢宰、蕭執)、李叔正、劉崧、羅復仁(附・孫汝敬)。

出自と召し出し

  • 劉三吾は茶陵の人。はじめの名を如孫といい、字で通った。兄の劉耕孫と劉燾孫はいずれも元に仕えた。耕孫は寧國路推官で長槍賊の難に死に、燾孫は常寧州學正で獠寇に死んだ。
  • 三吾は兵を避けて廣西に行き、行省が承制によって靖江路儒學副提舉を授けた。明の兵が廣西を下すと茶陵に帰った。
  • 洪武十八年(1385年)、茹瑺の推薦で召され、着いたときには七十三歳であった。奏対が上意にかない、左贊善を授けられ、たびたび遷って翰林學士となった。

典章制度の裁定と厚遇

  • 当時、天下は平定されたばかりで典章は欠けており、帝は熱心に制作を進めていたが、老儒はすでに世を去っていた。三吾を晩年になって得たので喜び、一切の礼制および三場で士を取る法は、多くその手で刊定された。
  • 三吾は博学で文を作るのが巧みであった。帝が大誥および洪範注を作り終えると、いずれも序を作らせた。敕によって省躬錄・書傳會選・寰宇通志・禮制集要などの諸書を編むにあたり、みなその事を総べ、下賜はたいへん厚かった。
  • 帝はかつて「朕が奎宿・壁宿の間を観ると、かつて黒気があったが今は消えた。文運が興るのであろうか。卿らは述作によって朕の意にかなうようにせよ」と言った。
  • 帝が詩を作るとそのつど和させ、かつて朝鮮の玳瑁の筆を賜った。朝参では侍衛の前に列するよう命じ、宴では殿中に座を賜り、汪叡・朱善とともに三老と称された。

晩年と南北榜の獄

  • そののち三吾は年ごとに老い、才力も衰えて、しばしば上意に逆らい、礼遇も次第に軽くなった。
  • 二十三年(1390年)、晉の世子に経を授けたが、吏部侍郎の侯庸に職務を怠っていると弾劾され、國子助教に降された。まもなくもとの職に戻った。
  • 三吾の人となりは慷慨で腹に垣根を設けず、自ら坦坦翁と号した。しかし大節に臨んではびくともせず奪えなかった。懿文太子が薨じ、帝が東閣門に出て群臣を召して対しつつ慟哭したとき、三吾は進み出て「皇孫が世嫡として統を承けるのが礼です」と言った。皇太孫の擁立はこれによる。
  • 戸部尚書の趙勉は三吾の婿である。贓罪に問われて死ぬと、三吾は引退を願い出て許された。まもなくまた學士となった。
  • 三十年(1397年)、紀善の白信蹈らとともに会試の主考をつとめた。榜が発表されると泰和の宋琮が第一で、北方の士が一人も入らなかった。そこで諸生は、三吾らは南人であるから同郷をひいきしたのだと言った。帝は怒って侍講の張信らに再閲させたが、その結果は上意にかなわなかった。ある者が「信らはわざと出来の悪い答案を差し出したので、実は三吾らの仲間だ」と言ったので、帝はいよいよ怒り、信と白信蹈らは死罪と論じられ、三吾は老齢のため辺境に流された。宋琮もまた流された。
  • 帝は自ら策問を与え、あらためて六十一人を取ったが、いずれも北方の士であった。当時これを南北榜、また春夏榜と呼んだという。
  • 建文の初め(1399年)、三吾は召し還され、久しくして卒した。
  • 宋琮は刑部檢校に起用された。同郷の楊士奇らが顕貴になっても、琮は縁故に頼るところがなく、宣徳年間になってもなお檢討として助教の事を掌り、在官のまま卒した。

汪叡――婺源からの帰順と侍講

  • 汪叡は字を仲魯といい、婺源の人。元末に弟の汪同とともに衆を集めて郷邑を守り、饒州の回復を助けて浮梁州同知を授けられたが就かなかった。
  • 胡大海が休寧を克つと、叡の兄弟は帰順した。婺源に星源翼分院を設けて汪同を院判とし、叡は田里に帰った。
  • 庚子(1360年)の秋、同が兵を率いて鄱陽を争ったが克てず、妻子を捨てて浙西に逃げた。幕府はこれを疑って叡に應天へ入るよう檄して人質とした。まもなく同が張士誠に殺されたと聞き、そこで叡に安慶の税令を授けた。
  • まもなく召されて川蜀の軍事に参賛したが、病のため辞して去った。
  • 洪武十七年(1384年)、あらためて召見され、西伯戡黎の篇を講じるよう命じられ、左春坊左司直を授けられた。かつて「薫風南より来たる」の詩を続けるよう命じられ、その他の応制の作もいずれも上意にかなった。
  • 春と夏には死罪の執行を停め、天地が物を生ずる仁に体することを請い、これに従った。一年余りで病が起こり、休暇を願って帰郷した。
  • 叡は篤実で物静か、みだりに言ったり笑ったりしなかったが、進講のときは事に応じてそのつど発言した。帝はかつて彼を「善人」と呼んだ。

朱善――婚姻律の議

  • 朱善は字を備萬といい、豐城の人。九歳で経史の大義に通じ、文を作ることができた。元末の兵乱で山中に隠れ、継母に仕えて孝と評された。
  • 洪武の初め、南昌教授となった。八年(1375年)、廷対で第一となり修撰を授けられたが、一年余りで奏対が上意に外れ、典籍に改められて郷里に帰された。ふたたび召されて翰林待詔となった。
  • 上疏して婚姻律を論じて言った。民間では姑舅(父方のおじ・母方のおば)および両姨(母の姉妹)の子女どうしは法によって婚姻できない。そのため仇の家が訴え出て、すでに婚約したものが断たれ、あるいは既に婚姻したものが離縁させられ、はなはだしくは子供が並ぶほどになってから有司に無理に引き離される。
  • 旧律を按ずるに、尊長と卑幼が互いに婚姻することを禁じているのは、母の姉妹と自分自身とが姑舅・両姨の関係にあたるという意味で、卑幼が尊属と結ぶことができないというにすぎない。姑舅・両姨の子女どうしであれば尊卑の嫌はない。
  • 成周の時、王朝と婚姻した国は齊・宋・陳・杞にすぎず、それゆえ異姓の大国を伯舅、小国を叔舅と呼んだ。列国では齊・宋・魯・秦・晉もそれぞれ甥舅の国であった。後世、晉の王氏・謝氏、唐の崔氏・盧氏、潘氏と楊氏の睦まじさ、朱氏と陳氏の好みは、いずれも代々婚姻を重ねた。温嶠は舅の子として姑の娘を娶り、呂榮公の夫人張氏は、その母の申國夫人の姉の娘である。古人にはこうした例がたいへん多い。願わくは群臣に議させてその禁を緩めていただきたい、と。帝はこれを許した。
  • 十八年(1385年)、文淵閣大學士に抜擢された。かつて家人の卦と心箴を講じたとき、帝は大いに喜んだ。まもなく休暇を願って帰郷し、卒した。享年七十二。著書に詩經解頤・史輯があり、世に伝わる。正徳年間に文恪と諡された。