明史卷一百三十六 列傳第二十四 崔亮
崔亮(字は宗明、?–1370年)は藁城の人で、元の浙江行省掾から明に降り、中書省禮曹主事・濟南知府を歴任した。即位や大祀の諸礼を禮曹時代に立案し、洪武元年に錢用壬の後を受けて禮部尚書となった。英陵の祭告、天下神祗の壇、祭器・誓戒・五祀・薦新の制、省牲の位置、壇屋の設置、郊祀の配享手続きなど、明初の礼制の多くを故事の考証によって定めた。帝の突然の下問にも経義を引いて即答する学識で知られ、朝賀の山呼・箋奏・冠服・坐墩の諸儀や大射・軍礼も亮の議による。附伝として、同じく礼を論じた牛諒・達魯特與權(答祿與權)・張籌・朱夢炎・劉仲質を載せる。
年表(14件)
- 洪武元年1368年禮部尚書の錢用壬が去り、その後任として起用される
- 洪武二年1369年仁祖の陵を英陵と称し祭告の礼を行うことを議して認められる
- 洪武三年1370年九月、禮部尚書の在官のまま卒する
- 洪武元年1368年牛諒が秀才に挙げられて典簿となる
- 七年1374年牛諒が三皇の廟を京師に建て漢唐以下は陵の地に廟を立てることを奏する
- 七年1374年牛諒が職務を怠って主事に降される
- 洪武六年1373年達魯特與權が推薦により秦府紀善を授けられ御史に改まる
- 十一年1378年達魯特與權が年老いて致仕する
- 洪武九年1376年張籌が員外郎から尚書に進み、宋濂と諸王妃の喪服の制を定める
- 洪武九年1376年張籌が社と稷を一壇に合わせ仁祖を配享することを議する
- 十年1377年張籌が湖廣叅政として出たのち事に連座して労役に処せられる
- 十二年1379年張籌があらためて禮部員外郎に起用される
- 洪武十一年1378年朱夢炎が禮部侍郎から尚書に進む
- 十五年1382年劉仲質が禮部尚書を拝し、釈奠の礼を定めて天下の学校に頒行する
帰順と禮部尚書就任
- 崔亮は字を宗明といい、藁城の人。元の浙江行省掾であったが、明の軍が舊館に至ると降り、中書省禮曹主事を授けられ、濟南知府に遷った。母の喪で帰郷した。
- 洪武元年(1368年)冬、禮部尚書の錢用壬が休暇を願って去ったので、亮を起用して代えた。
- 亮がはじめ禮曹にいたころ、即位と大祀の諸礼はいずれもその立案によるもので、丞相の善長がこれを朝廷に上げたので、これによって名を知られた。
- 尚書となると、およそ礼制のうち用壬が先に議して行われていたものについて、亮はみな故事を援用して議を定めた。その考証の詳確さは用壬に勝った。
英陵の祭告と諸儀の建議
- 洪武二年(1369年)、仁祖の陵を英陵と称することを議して上り、あわせて祭告の礼を行うことを請うた。太常博士の孫吾與は漢唐に行った例がないとして反駁したが、亮は「漢の光武は先の陵に昌の名を加え、宋の太祖もまた高祖の陵を欽、曽祖の陵を康、祖の陵を定、考の陵を安と加えた。そもそも創業の君がその祖考を尊べば、その陵をも尊崇する。陵を尊べば当然祭告すべきで、礼はもともと人情に縁って起こるものだ」と言った。廷議は亮を是とした。
- しばらくして亮は言った。禮運に「礼が郊で行われれば百神が職を受ける」とある。いま圜丘の東、方澤の西に天下の神祗の壇を増設すべきである、と。
- また言った。郊特牲に器は陶と匏を用いるとあり、周禮の疏には外祀に瓦を用いるとある。いま祭祀に瓷を用いるのは古意に合うが、盤や盂の類は古と異なるので、みな瓷に改め、ただ籩だけは竹を用いるのがよい、と。
- さらに、大祀の七日前に陪祀の官が中書に詣でて誓戒を受け、その戒辞は唐礼にならうことを請うた。また周禮によって五祀および四時の薦新、祼礼における圭瓚・鬱鬯の制を定めた。あわせて、旗纛を毎月朔と望に祭るのは煩瑣で神をけがすから、当該の祭の月にだけ行うべきだと言った。いずれも許可されて行われた。
省牲・壇屋・郊祀の論
- 帝はかつて亮に言った。先賢に「その生を見ては死を見るに忍びず、その声を聞いては肉を食うに忍びない」との言がある。いま祭祀で牲を検分する場所が神壇にきわめて近く、心に落ち着かない、と。亮はそこで古の省牲の儀を調べ、神壇から二百歩離すことを奏し、帝は大いに喜んだ。
- 帝は郊社の諸祭の壇に屋根がなく、にわか雨で衣服が濡れることを気にかけた。亮は、宋の祥符九年の南郊で雨に遭い太尉庁で望祭したこと、および元の経世大典に壇の垣の内外に屋を建てて風雨を避けたとある故事を引いて奏した。そこで詔して壇の南に殿を建て、雨のときは望祭することとし、靈星などの諸祠もみな亮の言によって壇屋を建てた。
- 当時、仁祖はすでに南北の郊に配されていたが、郊祀の礼が終わったのち改めて太廟に詣でて謝していた。亮はこれを止めるべきで、ただ祭の三日前に太廟に詣でて配享を告げればよいと言い、詔により許された。
- 帝は日中に黒点があるのを、天を祭るのが慎重でないためかと疑い、郊壇の従祀の神を増やそうとした。亮は漢唐の煩瑣で神をけがすやり方は手本にすべきでないと固く奏し、取りやめとなった。
即答の学識と定めた諸儀
- 帝がある日、亮に問うた。朕が天地を郊祀するとき拝位は正中であるのに、百官の朝参では班列が東西なのはなぜか、と。
- 亮は答えて言った。天子が天を祭るときは午の階から昇って北に向かうのは陽に応える意であり、社を祭るときは子の階から昇って南に向かうのは陰に応える意です。群臣の朝参は君上の尊を避けるべきですから、昇降はみな卯の階を由り、朝班は東西に分かれて馳道を避けるのです。その意味は異なります、と。亮が突然の問いに答えて必ず経義を引くのは、多くこの類であった。
- 郊廟の祭祀のほか、朝賀の山呼、百司の箋奏、上下の冠服、殿上の坐墩の諸儀、および大射・軍礼は、いずれも亮が定めたものである。
- ただし、大祀は帝が自ら牲を検分し、中祀・小祀の牲は官を遣わして代行させるべきだと述べたが、帝は自ら祭る場合はいずれも自ら検分するよう命じた。
- また唐制にならって郡国に祥瑞を奏上させることを請うたが、帝は災異にかかわることのほうが重いとして、有司に駅伝で報告させることとし、亮の議とは異なった。
- 洪武三年(1370年)九月、在官のまま卒した。
牛諒――三皇の祀と歴代帝王廟
- その後、牛諒・達魯特與權・張籌・朱夢炎・劉仲質の類も、それぞれ論じ立てるところがあった。
- 牛諒は字を士良といい、東平の人。洪武元年(1368年)、秀才に挙げられて典簿となった。張以寧とともに安南に使いして、帰って上意にかなった。三度遷って禮部尚書に至り、釈奠および大祀の分献の礼を改定し、詹同らとともに省牲と冠服を議した。
- 御史の達魯特與權が三皇を祀ることを請うたので、太祖はその議を礼官に下し、あわせて歴代の帝王で功徳のある者を廟で祀ることを検討させた。
- 七年(1374年)正月、諒は三皇の廟を京師に建てて春秋に祭り、漢唐以下は陵の地に廟を立てることを奏した。帝はこれを改めて施行した。詳しくは礼志にある。
- この年、職務を怠って主事に降され、まもなく官に復したが、のちやはり職に堪えないとして罷免された。諒の著述はたいへん多く、世に伝えて誦された。
達魯特與權――三皇の祀と陵寝の巡視
- 達魯特與權は字を道夫といい、蒙古の人。元に仕えて河南北道亷訪使僉事となり、明に入って河南の永寧に寓居した。
- 洪武六年(1373年)、推薦により秦府紀善を授けられ、御史に改まった。律令を重ねて刊行することを請うた。盱眙の民が瑞麦を献じたとき、與權は宗廟に薦めることを請うた。帝は「瑞麦を朕の徳の致すところとするのは、朕は受けられない。必ずこれを祖宗に帰すべきだ。御史の言は正しい」と言った。
- 翌年、廣西按察僉事として出るはずであったが、赴かないうちにまた御史となり、上書して三皇を祀ることを請うた。礼官に議させ、そこで帝王廟をあわせて建てた。さらに使者を遣わして歴代の諸陵寝を巡視させ、守陵戸二人を置いて三年に一度祭ることとした。その制はいずれもこれに始まる。
- また禘の礼を行うことを請うたが、議は妨げられて行われなかった。翰林修撰に改まり、事に連座して典籍に降され、まもなく應奉に進んだ。十一年(1378年)、年老いて致仕した。禘の礼は嘉靖年間になってようやく定まった。
張籌――社稷の壇の改議
- 張籌は字を惟中といい、無錫の人。父の張翼はかつて張士誠の将である莫天佑に降るよう勧め、さらに平章の胡美に降った者を殺さないよう請うたので、城中の人は無事であった。
- 詹同の推薦で翰林應奉を授けられ、禮部主事に改まった。詔を奉じて尚書の陶凱とともに漢唐以来の藩王の事跡を編集し、昭鑑錄とした。
- 洪武九年(1376年)、員外郎から尚書に進み、學士の宋濂とともに諸王妃の喪服の制を定めた。
- 籌は記憶と暗誦が広く、禮曹に長く在って歴代の礼文の沿革に通じていたが、かなり牽強付会を好んだ。
- はじめ陶安らが圜丘・方澤・宗廟・社稷の諸儀を定めて数年行われていたが、洪武九年、籌が尚書となると、あらためて社と稷を合わせて一壇とし、勾龍と棄の配位を廃し、仁祖を配享して、祖の社を尊びかつ親しむ道を明らかにすることを議した。そこで社稷を郊廟の祀と並べて上祀とした。識者はひそかにこれを非とした。
- のち湖廣叅政として出、十年(1377年)事に連座して労役に処せられた。十二年(1379年)、あらためて禮部員外郎に起用され、のち官に復したが、事によって免ぜられた。
朱夢炎――公子書と禮部尚書
- 朱夢炎は字を仲雅といい、進賢の人。元の進士で金谿丞となった。太祖が召して賓館に置き、熊鼎とともに古の事跡を集めて平易な言葉にし、公卿の子弟を教えさせて、公子書と名づけた。
- 洪武十一年(1378年)、禮部侍郎から尚書に進んだ。帝はちょうど古を稽え文を重んじていたが、夢炎は古を援いて今を証し、源流を分析することは手のひらを指すようであった。文章は詳らかで雅やかで、拠るところがあった。帝はこれを重んじた。在官のまま卒した。
劉仲質――釈奠の礼と学規
- 劉仲質は字を文質といい、分宜の人。洪武の初め、宜春訓導から推薦されて入京し、翰林典籍に抜擢され、命を奉じて春秋本末を校正した。
- 十五年(1382年)、禮部尚書を拝し、儒臣とともに釈奠の礼を定めて天下の学校に頒行し、毎年春秋の仲月に孔子を儀のとおりに通祀することとした。
- 当時、国子学が新たに落成し、帝はまさに釈菜を行おうとした。侍臣のある者が「孔子は聖人であっても臣です。礼としては一奠再拝がよろしい」と言った。帝は言った。昔、周の太祖が孔子廟に行ったとき、左右は拝すべきでないと言ったが、周の太祖は「孔子は百世の帝王の師である。どうして拝さずにいられよう」と言った。いま朕は天下を有し、百神を敬い礼するのだから、先師に対しては礼をいっそう篤くすべきである、と。そこで仲質に詳しく議させた。
- 仲質は、帝が皮弁を着て圭を執り、先師の位の前に詣でて再拝し、爵を献じてまた再拝し、退いて服を改め、そのうえで彛倫堂に詣でて講義を命じられるよう請うた。典礼はかくして隆重となり、詔して許可された。
- また学規十二条を立て、欽定の九条と合わせて師と生に頒賜した。
- ついで命を奉じて劉向の説苑と新序を学校に頒ち、生員に講読させた。この年の冬、華蓋殿大學士に改まり、帝は自らその誥文を作った。事に連座して御史に貶され、のち老齢により致仕した。
- 仲質の人となりは重厚で篤実、経史に広く通じ、文体は典雅確実で、つねに帝の意にかなった。