禮部尚書と科挙の式
- 陶凱は字を中立といい、臨海の人。至正の郷薦を受けて永豐教諭に任じられたが就かなかった。
- 洪武の初め、推薦によって召されて入り、元史の編修に加わった。書が成ると翰林應奉を授けられ、大本堂で教習し、楚王に経を授けた。
- 三年(1370年)七月、崔亮とともに禮部尚書となり、それぞれ奏上するところがあった。軍礼および品官の墳塋の制は凱の議である。
- その年、亮が卒したので、凱が単独で任にあたり、科挙の式を定めた。翌年の会試では凱が主考官をつとめ、吳伯宗ら百二十人を取った。答案を天覧に供したとき、凱がその巻頭に序を書き、それが定例となった。
- 帝はかつて凱に、死に仕えることは生に仕えるごとくであり、朕は親を養うのに間に合わなかったから、遠祖を追慕する道を尽くすべきだ、と諭した。凱は太廟にすでに常祀があることから、乾清宮の左に別に奉先殿を建てて神御を奉ることを請うた。明の奉先殿の制はここに始まる。
会要の編類と晩年
- 五年(1372年)、凱は言った。漢・唐・宋の時にはいずれも会要があって当時の政を記していた。いま起居注は設けられているが、諸司が受けた諭旨および奏事の簿籍は、会要にならって類別に編んで書とすれば、後世に法を垂れられよう。台・省・府に下したものは、それぞれ銅の櫃を置いて収蔵し、稽考に備えて欠落のないようにすべきである、と。これに従った。
- 翌年二月、湖廣參政として出、致仕した。八年(1375年)、國子祭酒に起用され、翌年、晉王府左相に改まった。
- 凱は博学で詩文に巧みであった。帝はかつて前代の楽章に諛辞が多く、あるいは雅馴でないのを嫌い、凱と詹同に改めて撰ばせ、たいへん上意にかなった。
- 冬至に斎宮に侍したとき、慶事の完成を記す詩篇があるべきだと言ったので、凱に先唱を命じ、諸臣がみな和し、宋濂が序を作った。その後も行幸に扈従して祭に陪し、献ずるところがあると帝はそのつど善しとした。一時期の詔令・封冊・歌頌・碑誌の多くはその手から出たという。
- 凱はかつて自ら耐久道人と号したが、帝はこれを聞いて憎んだ。禮部にいたとき、朝廷の使者が高麗に赴くにあたり主客曹が符験を誤用したことに連座して、死罪に処せられた。