出自と処州の帰順
- 胡深は字を仲淵といい、處州龍泉の人。聡明で知略があり、経史・百家の学に通じていた。
- 元末に兵乱が起こると嘆じて「浙東の地気はすべて白い。禍がまもなく及ぶ」と言い、里中の子弟を集めて自らを守った。
- 舒穆嚕伊遜が萬戸として處州を鎮めたとき、深を參軍事に辟し、兵数千を募って諸山の賊を捕らえた。温州の韓虎らが主将を殺すと、深が赴いて諭し、軍民は感じて泣き、虎を殺して城をもって降った。
- のち章溢とともに龍泉の乱を討ち、周辺の県の盗賊を捜して順次平らげた。伊遜は当時すでに行省參政に進んでおり、承制して深を元帥とした。
太祖への帰属と処州の経営
- 戊戌(至正十八年、1358年)十二月、太祖が自ら婺州を征したとき、深は兵車数百輛を率いて援けに行ったが、松溪に至って救えず、敗れて去り、婺州はそのまま落ちた。
- 翌年、耿再成が處州を侵すと、伊遜は元帥の葉琛、參謀の林彬祖、鎮撫の陳中真および深を分遣して兵を率いて防戦させた。折しも胡大海の兵が至って再成と合し、大破して城下に迫った。伊遜は敗れて葉琛・章溢とともに建寧へ逃げ、處州はそのまま落ちた。深は龍泉・慶元・松陽・遂昌の四県をもって降った。
- 太祖はかねて深の名を知っていて召見し、左司員外郎を授け、處州に還して部曲を招き集めさせた。江西征討に従い、平定されると親軍指揮として吉安を守るよう命じられた。
- 處州の苗軍が叛いて守将の耿再成を殺すと、深は平章の邵榮に従ってこれを討ち誅した。
- 折しも中書分省を浙東行中書省に改めたので、深を行省左右司郎中として處州の軍民の事を総制させた。当時、山賊がひそかに起こって人心が固まらなかったが、深は力士一万余人を募ってその首領を捕らえ誅した。沿海の軍はもとより驍勇であったが、とくに横暴な者数人を誅して、患いはやんだ。
新城の築造と福建攻め、戦死
- 癸卯(至正二十三年、1363年)九月、諸全の叛将・謝再興が張士誠の兵で東陽を侵したとき、左丞の李文忠は深に兵を率いて前鋒とさせ、再興は敗走した。
- 深は、諸全を浙東の藩屏とすべきだと建議し、諸全を去ること五十里の地を測って五指山に沿って新城を築き、兵を分けて守らせた。太祖ははじめ再興の叛乱を聞いて急ぎ使者を文忠に遣わし、別に城を築いて守る計を立てさせようとしたが、着いたときには工事はすでに完了していた。
- のち士誠の将・李伯昇が大挙して侵し、新城の下に留まったが抜けずに敗れ去った。太祖は深の功を嘉して名馬を賜った。
- 太祖が呉王を称すると、深を王府參軍として、なお處州を守らせた。
- 温州の豪族・周宗道は衆を集めて平陽に拠っていたが、しばしば方國珍の甥の明善に迫られ、城をもって帰順した。明善は怒って攻めたが、深が兵を遣わして明善を撃ち退け、そのまま瑞安を落とし、温州へ進軍した。方氏は恐れて毎年銀三万を輸して軍資に充てることを請うたので、深に軍を返すよう命じ、また鎮守に還らせた。
- 陳友定の兵が至ると破り、浦城まで追い、またその守兵を破って城はそのまま落ちた。進んで松溪を抜き、その守将・張子玉を獲た。
- そこで廣信・撫州・建昌の三路の兵を発して八閩を取ることを請うた。太祖は喜んで「子玉は驍将である。これを捕らえたなら友定は胆をつぶしている。勢いに乗じて攻めれば、陥とせぬ道理はない」と言い、廣信指揮の朱亮祖を鉛山から、建昌左丞の王漙を杉關から、深と合して一斉に進ませた。
- やがて亮祖らが崇安を陥とし、進んで建寧を攻めた。友定の将・阮徳柔が固守した。深は雲気を見て不利と判断し、事を緩めようとしたが、亮祖は「軍はすでにここまで来ている。緩めてよいものか。それに天道は幽遠で、山沢の気は変転きわまりない。徴とするに足りない」と言った。
- 当時、徳柔の兵は錦江に屯して深の陣の後ろに迫っていた。亮祖が戦を督することいよいよ急だったので、深は兵を返して撃ち、その二つの柵を破ったが、徳柔の軍は力戦し、友定も自ら精鋭を率いて挟み撃ちにした。日はすでに暮れ、深は囲みを破って走ったが、馬がつまずいて捕らえられ、そのまま害された。五十二歳。縉雲郡伯を追封された。
- 太祖がかつて宋濂に「胡深はどういう人物か」と問うと、「文武の才です」と答えた。太祖は「まことにそのとおりだ。浙東の一藩屏として私はまさに頼りにしていたのに、深は長く郷里の郡に任じていたので、閩を平らげて報効しようと志し、ついに死をもって殉じた」と言った。
- 深は人に接するのに寛厚で、用兵十余年、みだりに一人も殺したことがなかった。處州を守っては学校を興して士を育て、縉雲は田税が重かったので、新たに没収した田の租をもってその額に充て、塩税は十分の一であったが半分だけ取ることを請うて商人を通わせた。軍民はみなその恵みを慕ったという。