張赫
- 張赫は臨淮の人。江淮が大いに乱れると義兵を組織して郷里を守った。嘉山の繆把頭が招いたが行かず、太祖の挙兵を聞くと衆を率いて帰附し、千戸を授けられ、功により萬戸に進んだ。
- 江を渡るのに従い、行く先々の攻伐にすべて加わり、功により常春翼元帥に抜擢されて常州を守禦した。まもなく鄱陽に戦い、武昌を攻めた。
- のち大將軍に従って張士誠を伐ち、進んで平江を囲んだ。諸将が門を分けて軍する中、赫は閶門に軍した。士誠がしばしば兵を出して突撃したが、そのつどその鋒をくじいた。
- また大軍に従って慶元を克ち、あわせて温州・台州を下した。
- 洪武元年(1368年)、福州衛都指揮副使に抜擢され、本衛同知に進み、さらに都指揮使司事を署するよう命じられた。
- 当時、倭寇が海島の中に出没し、隙に乗じて岸に上っては沿海の住民を掠め、人々は苦しんでいた。帝はしばしば使者に詔書を持たせて日本國王に諭させ、また何度も日本の貢使を絶ったが、ついに倭人の要領を得なかった。
- 赫は海上に長くあり、捕えた倭は数え切れなかった。最後には賊を琉球の大洋まで追って戦い、その首魁十八人を捕え、首級数十を斬り、倭船十余艘を獲、弓刀器械は無数に収めた。
- 帝はその功を偉として都指揮の印を掌らせ、まもなく興化衛に調し、召し還して大都督府僉事に抜擢した。
- 折しも遼東の漕運が困難で、軍の食糧が期日に遅れることがあり、帝は深く憂えた。赫が海路に習熟しているので海運の事を督させた。久しくして航海侯に封じられ、禄二千石を食み、世券を与えられた。
- 前後に遼東を往来すること十二年、都合十度の海運を督し、労苦を尽くしたので、軍中は欠乏を免れた。病没して恩國公を追封され、莊簡と諡された。
- 子の張榮は雲南征伐に功があり、水軍右衛指揮使となった。孫の張鑑は福建都指揮使で、永樂年間に交阯に留まって鎮した。