明史卷一百三十 列傳第十六 華高

華高

  • 華高は和州の人。俞通海らとともに巢湖の水師を率いて帰附した。太平を克つのに従って總管を授けられ、采石・方山の兵を破って集慶・鎮江を下すのに従い、秦淮翼元帥に遷った。
  • 鄧愈とともに廣德を攻めたとき、守将が城下に兵を厳しく構えていたが、高は数騎で挑戦した。元兵が壁を堅くして動かないと、高は突撃して大破し、その城を取り、兵一万人と糧数千斛を得た。
  • 常州平定に従って行樞密院事に僉した。俞通海の副として趙普勝の柵江の営を撃ち破り、ふたたび陳友諒を破り、長興を援け、武昌を克ち、湖廣行省左丞を授けられた。舟師を率いて淮東を克つのに従い、浙西を収め、行省平章政事に進んだ。
  • 洪武三年(1370年)、廣德侯に封じられ、歳禄六百石とされた。
  • 高は臆病な性格で、しかも子がなかったので宿衛の任に就くことを願い、征討があるたびに病と称して行かなかった。水師を練るよう命じられても、習っていないと言って辞した。帝は旧臣のゆえに寛容に扱った。
  • 当時、諸勲臣の多くは辺境へ出たが、高だけは遣わされなかった。最後に廣東の辺海の城堡を修繕するにあたり、高が自ら行くことを請うと、帝は「卿がふたたび自ら努めるとは、まことによいことだ」と言った。
  • 洪武四年(1371年)四月、事が終わって瓊州に至り、没した。
  • もともと高は利殖に励むと言う者があったので歳禄がひとり薄かったが、ここに至って貧しくて葬ることもできなかった。帝は憐れんで禄三百石を補って支給するよう命じた。子がなかったので誥券を墓中に納め、巢國公を贈り、武莊と諡した。甥の華岳に指揮僉事を授けた。