明史卷一百三十 列傳第十六 胡海

勇戦と累進

  • 胡海は字を海洋といい、定遠の人。かつて土豪の赤塘王總管の営に入っていたが、自ら抜け出して帰服し、百戸を授けられた。
  • 元の将の賈魯の兵を破り、泗州・滁州を克つのに従い、萬戸に進んだ。江を渡って曼濟哈雅の水寨を抜き、陳額森の兵を破り、集慶・鎮江を取るのに従い、寧國で元の将の謝國璽を破って先鋒に選ばれた。
  • 大軍に従って湖州を囲み、その東南門の月城を崩した。宜興攻めに従い、婺州を下し、紹興で激戦して賊四百余人を生け捕り、都先鋒に進んだ。
  • また龍江に戦い、安慶を克ち、漢人と対峙して八戦いずれも大勝して江州に入った。徐達に従って廬州を攻め、いずれも功があった。
  • 海は驍勇で、しばしば戦ってしばしば傷つき、手足や胸腹に金創が全身に及んだが、闘志はいよいよ盛んで、従う士卒は皆奮い立って力を尽くした。太祖はその剛勇を称え、花槍上千戸を授けた。
  • ふたたび大軍に従って荊州・澧州・衡州・潭州を克ち、寶慶衛指揮僉事に抜擢され、指揮使に遷って益陽に鎮するよう命じられた。
  • 平章の楊璟に従って湖南・廣西の未占領の郡県を征し、祁陽から進んで永州を囲み、東鄉橋で守兵と戦って千戸・萬戸四人を生け捕り、夜半に先登して抜いた。靖江に至って南門に戦い、萬戸二人を生け捕り、夜の四更に北門の八角亭から先登して功が最も高く、左副總兵に任じられた。左江・上思の蠻を剿平した。
  • 蜀征伐に調され、龍伏隘・天門山および温湯關を克ち、世襲指揮使を与えられ、なお益陽に鎮した。武岡・靖州・五開の諸苗蠻が前後して乱を起こすと、ことごとく首謀者を捕えて誅し、その余衆を撫した。都督僉事に遷った。

雲南の平定と晩年

  • 洪武十四年(1381年)、雲南征伐に従い、永寧から烏撒へ向かい、進んで可渡河を克ち、副將軍沐英と合流して大理を攻めた。
  • 敵が全軍で上關・下關を扼したので、定遠侯王弼が洱水の東から上關へ向かい、沐英が大軍を率いて下關へ向かい、海には夜の四更に石門を取らせ、間道から河を渡って點蒼山の後ろを回らせた。海は大樹をよじ登り崖伝いに上って旗幟を立てた。沐英の士卒はこれを望み見てみな踊り上がって大声を挙げ、敵衆は驚き騒いだ。沐英は關を斬り開いて入り、海も山上の軍を指揮して駆け下り、前後から挟撃して敵はことごとく潰走した。
  • 洪武十七年(1384年)、功を論じて東川侯に封じられ、禄二千五百石、世券を与えられた。
  • 三年を越えて左參將として金山征伐に従い、さらに二年後、征南將軍として澧州・九溪の諸蠻の寇を討ち平らげた。軍が還ると郷里へ帰ることを乞い、手厚く金帛を賜って送られた。
  • 洪武二十四年(1391年)七月、疽を病んで没した。享年六十三。
  • 長子の胡斌は龍虎衛指揮使で、雲南征伐に従い、曲靖を過ぎたとき突然賊に遭い、飛矢に当たって没し、都督同知を贈られた。次子の胡玉は藍玉の党に坐して死んだ。次子の胡觀は南康公主を娶って駙馬都尉となったが、嗣がぬまま没した。宣德年間、公主がその子の胡忠に嗣がせるよう乞い、詔して孝陵衛指揮僉事を授け、世襲を与えた。